★Beat Angels

サル・パラダイスよ!誰もいないときは、窓から入れ。 レミ・ボンクール

みんなが私を待っている

リハビリ施設でたびたび病状が悪化しては病院に緊急搬送される、ということを繰り返していた親父が昨晩亡くなった。施設の担当者から連絡を受けたときは、またいつものことかと高をくくっていたのだが、今回は病院に到着するなり医師から今度は危ないことを告げられた。それから2時間後、親父は意識を戻すことなく86年の生涯を閉じたのだった。

最初に搬送されたのはもう1年以上前のことだ。その知らせを聞いた時には今生の別れか、とある程度覚悟を決めて親父を看病した。なんとか一命をとりとめ、明け方には目をあけてくれたので安心した。私としてはその最初の搬送のときにすでに覚悟は定まってしまっていて、今回自分でも不思議なほど静かな気持ちで親父の死を迎えられたのだと思う。

 

親父はもう20年以上前にお袋を喘息で亡くしていた。親父はそれからほどなくして長年勤めていた会社を定年退職し、それからは趣味の写真に没頭していた。ふと気がつけば行先も告げることなく一人旅に出かけ、しばらくして戻ってくると旅先で撮った写真をさも楽しそうに私に見せるのだった。そしてその翌日からはその写真をパソコンでせっせと整理するということを日課にしていた。

そんなある日、親父は趣味が高じて写真の個展を開くと言い出した。たまたま新幹線の隣の座席に座ったのがプロの写真家の人で、よせばいいのにその人に写真を見せたところいたく褒められたらしい。そして彼から個展を開くといいと助言ざれたらしいのだ。私は勿論、すでに嫁いでいた姉も、またその旦那もその手伝いにかり出されて個展の開催に奔走させられた。親父は親父で一人ほくそえみを浮かべながら展示する写真を前日まで悩んでいた。私にはどれも同じようにしか見えなかったが。

さて、個展の開催の当日が来た。会場に並んでいる写真は、田舎の風景写真ならばそれに徹すればいいのに、駅の写真がでてきたり、鳥だったり脈絡なく並んでいた。一言でいえばまるで節操がない、に尽きるものだった。場所は銀座の一等地にあるビルで入り口には大きな看板も飾ってあったので、通りすがりの人たちはまあまあ、中まで入ってきた。でも入口からならんだ写真を少しみると退屈したのか、見限ったのか、すぐに出て行ってしまうのだった。でそれなり私たちだって開催にこぎつけるまでが大変で開催したあとのことまで頭は回っていなかった。それでも親父は満足げだった。それは個展を開催する、ということが目的だったからだろう。

そんな親父がある日いきなり、合唱団に入ると言い出した。私は幾度かカラオケに一緒に行って親父が藤山一郎とかの歌を歌うのを聴いたことはあったが、直立不動で緊張しながら甲高い声を張り上げて苦しそうに歌うのを見た記憶しかない。決してお世辞でも歌がうまいとは思えなかった。なんでも町内会のイベントで一緒になった人がその合唱団の人でまたまた親父をさそったらしいのだ。下手の横好きとはまさに親父のこと。下手なのにのめりこんでしまう。そして話を大ごとにして家族を、そして周りまで巻き込んでしまい、結果的に迷惑をかけてしまうのだ。合唱はみんなでするものだ。写真とはわけが違うので迷惑の規模も尋常ではないだろう。私は近い将来に起こるであろう不安に震えた。

それからというもの親父は絵に描いたように合唱団、そして歌にのめりこんでいった。毎週の日曜日が練習日と決まっていたので親父はいそいそとそれに出かけて行った。そして家にいるときは発声練習を繰り返していた。私と親父が住む家は町はずれの閑静な住宅街にあった。親父が歌うと近所の犬たちが吠え始める。それも一匹ではない。かなり遠くからも犬の遠吠えが聞こえた。親父の声があまりに甲高いのでそれが聞こえてしまう犬にとっては迷惑な話だったに違いない。

 

 


ところがある日突然、親父は家で倒れた。脳梗塞であった。救急車で病院に搬送された。幸運にも意識には問題はなかったが右半身にうまく動かなくなり、リハビリが必要になった。そこでリハビリ施設のある海沿いの施設にあずけることにした。私は毎週施設を訪問して親父と話をした。親父は行くたびに合唱団のことを心配していた。

-合唱団のみんなが心配だよ。きっとみんなが私を待っているなあ。

私はそれを聞き流した。親父のことだ、きっとみんなに迷惑をかけているだろう。今はしばらく来なくなって静かになったと清々しているのではないだろうか。第一、歌だってうまくない。きっと音程もみんなと合わなくて苦労していたんだろう。誰も親父を待っていたりしないはずだろう。

私は親父にはリハビリに専念して早く自宅にもどってそれから合唱団に復帰すればいい、と言った。親父も少しは心細いところもあるのか私の言うことに大人しく従ってくれた。でも、時折、合唱団のことを思い出して心配になるのか「みんな私を待っている」というのが口癖になっていた。私の方は、また言っているなあ、という程度で聞き流していた。

それから親父はリハビリに専念していたのだが右半身はなかなか回復しなかった。そして施設に入ってから半年すぎた頃に、脳梗塞が再発して病院へ搬送された。そしてその後は幾度も繰り返してとうとう昨晩、亡くなったのであった。

私は親父の死後、葬儀の手配と役所への届け出と家の整理に忙殺された。そして葬儀を翌日に控えた日のことである。親父の部屋で持ち物を整理していると合唱団からの会報が出てきた。表紙には指揮者の女性のあいさつの記事が写真付きで掲載され、ページをめくると合唱団メンバの紹介記事もあった。そこには親父も名前もあった。まだ、団員として登録されているのだ。そういえば合唱団には親父が倒れたときからまったく連絡していないことを思い出した。そして葬儀の前に親父がなくなったことは報告しておこうと思いたった。

合唱団の事務所は隣の駅からほどないところにある小さなビルの一室だった。部屋の中に入ると私は指揮者の方の席まで案内された。そこにはついさきほど写真でみた女性が座っていた。私は親父の名前を出して死去したことを告げ、こう話し出した。

-うちの親父がご迷惑をおかけしました。親父は家にいても自分勝手で、とにかく仕切ってないと気が済まない人でした。決して歌もうまくないくせにしゃしゃり出てきて皆さんにはご迷惑をおかけしてしまったと思います。大変、お世話になり申し訳ありませんでした。

私はそう言って頭を下げた。彼女は大きなため息をついた。そして落ち着いた口調でゆっくりと言葉をかみしめるように話し始めた。

-あなたのおっしゃったような方はうちの合唱団にはいません。でも、その方と同じ名前の方はいるのでその方のお話をしましょう。

彼女は続けた。

-彼は、年配ではありますが声量、声質ともに誰にも負けません。なので、テノールのリーダーを務めてもらっています。リーダーの役割を立派に努めてみんなを引っ張っていってくれています。団員からの信望も厚いし、尊敬され慕われてもいます。大きなコンサートの前などは不安に陥りがちなみんなを元気づけてくれて、何よりもみんなで何かを作り上げよう、というとてもいいムードを作ってくれます。それは私などには到底真似できません。彼はわが合唱団が誇る誰にも代えがたい素晴らしい声楽家なんです。

彼女はさらに続けた。

-その人は2年ほど前から練習に来なくなりました。連絡もありませんでしたからみんなで心配していました。それでも私たちはずっとみんな彼と一緒に歌える日を信じてずっと待っていたのです。そしてこれからもずっと彼を待っていることでしょう。

彼女の声は少しだけ震えていた。私の背中からは部屋にいた女性たち小さくすすり泣く声がいくつか聞こえた。指揮者の女性はまっすぐに私を見ていた。それは悲しみのようでもあり、悔しさのようでもあり、私に対する恨みのようでもあった。私は何も言えなかった。感謝のことばだけを短く告げただけで事務所を後にした。

 


親父の葬儀は近所の小さなセレモニーホールでごくごく小さく営まれた。翌日、集まったのはこの付近に住む身近な親戚が数名だけだった。簡単な式が終わってみんなが帰ろうと立ち上がって歩きだしたときのことである。会場の窓の向こう側から澄んだ歌声が聞こえてきた。窓のそばによって見下ろしてみると、ホールの玄関先に30人を超える人たちが列を作って並び、そして歌を歌っていた。こちらに背を向けて指揮をしているのは昨日の女性であった。曲はモーツアルトのレクイエムである。私がなぜこの曲を知っているのか。それはかつて親父が誰かの葬式で歌うと家で練習していたことがあるからだ。親父はいつになく真剣な表情をしていた。私はなぜ親父の合唱にかけるひたむきな情熱にまっすぐに向き合えなかったのだろうか。レクイエムを歌う親父の顔を思い出しながら、私は不意に涙をこぼした。親父が死んでから初めての涙だ、いや、そもそも親父のために流す涙は生まれて初めてなのではないか、そう思っ至った。合唱団のレクイエムはまだ続いている。私はその物悲しい歌声が高い秋の空に吸い込まれていくのをだまったまま見つめていた。