★Beat Angels

サル・パラダイスよ!誰もいないときは、窓から入れ。 レミ・ボンクール

ワニとウサギの物語

その島から稲羽(いなば)の浜までずらりと並んだワニの列の中で、一番目の若いワニは、遠い浜辺でシロウサギが列の一番最後のワニに皮をはがされるのを悲しそうに見ていました。なぜならその若いワニは知っていたのです。そのウサギが実は神様であり、まもなく現れる命(みこと)に救われること、その命に天啓を与えることを。そしてかわいそうなウサギの姿をみて涙を流しました。そうなのです。彼はウサギにひそかに恋をしていたのです。

それからしばらくしたある日、その若いワニは稲羽の浜辺を泳いでいると、そのウサギが波打ち際に向かって歩いてくるのを見つけました。命のおかけで元通りの可憐な姿に戻っていました。若いワニは心がときめくと同時に不安を覚えて岩陰に隠れました。仲間があれだけひどいことをしたのだからきっと自分たちを恨んでいるに違いないと思ったのです。でも神様のウサギには隠れても無駄なことでした。

「そこにいるのは分かってるのよ」とウサギが声をかけました。若いワニは、ああ見つかってしまった、と観念して岩陰から顔を出しました。ウサギはワニに言いました。「島まで渡りたいんだけど、船になってくれないかしら?」ワニは困って黙っていました。「私の言うことをきかなくてもいいの?」ウサギはワニが自分に恋をしていることをすっかりお見通しです。ワニは尋ねます。「だって、海の途中で僕を毒針で刺すつもりでしょう?」ウサギは驚いたような顔をします。「まさか!あなたが途中で死んだら私だって死ぬでしょう?」ワニは半分あきらめたように答えます。「はい、分かりました。一緒に渡りましょう」

ウサギを背中に乗せた若いワニが海を渡っていきます。ウサギはちょうど島までの半分くらいまできたとき、毒針で若いワニの背中を刺しました。ワニは海の底へと沈んで行きました。もちろん背中にのったウサギも一緒です。
若いワニは沈んでいきながら言いました。「こういう生き方があってもいいかもなあ」ウサギが尋ねます。「それって死に方のこと?」ワニは少し考えてこう言いました。「生き方と死に方ってどこがちがうのかなあ」ウサギは続けます。「わからないわ。でも確かなのはどちらか一方だけでは足りないってことよね」二人はそんなことを話しながら海の底をめざしていきました。

二人の話を耳にした命はたいそう悲しみました。命は二人の最期の様子を尋ねるとウミガメはこう答えました。「いいえ、それが不思議なことにぜんぜん悲しそうではなかったんです。それはそれは楽しそうに、まるで二人仲良く新しい旅にでも出かけるようでした」

  

 

虹ノムコウ

雨の放課後。クラスメートたちは下駄箱で傘を開くと歓声をあげて雨の中を駆け出していく。二人だけを残して。その日の降水確率は50%。傘を持っていないのは僕とマミという女の子の二人だけ。二人は取り残されて玄関先に並んで立ちながら校庭にできた水たまりを見ていた。マミは家が近所だったが遊んだり話をしたりすることはなかった。

校内は誰もいなくなっていて、廊下は薄暗く静まりかえっていた。雨の音が校舎にしみ込んでくる。僕たち二人は何も話さずに立っていた。僕が気まずさからふと女の子の横顔をのぞいてみると、彼女は水たまりにゆれる雨の輪をだまって見つめていたのだが、よくみると頬に涙が伝っていた。赤いランドセルがかすかに震えている。僕はその理由を聞くこともできずに隣でだまっているだけだった。やがて彼女は口を開いた。

―山本さんとこのチコが病気で死んだの

その名は僕も知っていた。チコは飼われていた犬の名前である。僕は何と言っていいのかわからずにいた。女の子もそのまま黙っていた。しばらくして雨は小降りになり、校門の正面にある公民館の上に大きな虹がかかった。

―あ、虹!

二人同時に声を出したかと思うと彼女は虹を追いかけるように校庭を駆けだした。やがてしょんぼりとしてまた戻ってきた。

―やっぱりだめ。虹が途中で切れてる。地面までちゃんと伸びているのを見たことないなあ。いつも探しているんだけど

僕は何か話さなきゃと焦ってこう言った。

―今のはだめだったけど、もしもいつか虹が地面までちゃんとつながっているのを見つけたら、その場所に集まることにしようよ
―集まってどうするの?
―うーん・・・そこは虹が生まれるところでそこにいけば願い事が本当のことになるんだよ
―虹が生まれるってどういうこと?誰かが虹を作ってるの?
―うん!そこには7人の小人がいて虹を作ってるんだ!

今でも僕は虹を見るたびにそれが地面までつながっているかを確かめる。そしてこの小さな約束を今でも思い出す。まだ見つかっていない。願い事はかないにくくできている。

 

 



マーマレード

山に囲まれた小さな田舎町で
歴史的な大事件が
まさに始まろうとしていた

子供たちはもちろんのこと
お母さんたちも
八百屋のおばさんも
肉屋のおじさんも
魚屋のお兄さんも
興味津々にその始まりを心待ちにする

土曜日の放課後
学校の掲示板に貼りだされた
献立表の前に集まって
子供たちは歓声をあげた

子供たちは教室ではしゃぎまわる
―マーマレードだってさ
―うん、マーマレードだ

少年は家に帰ってお母さんに告げる
―マーマレードだって
―へえ、マーマレードなんだね

お母さんは八百屋のおばさんに告げる
―なんでもマーマレードらしいのよ
―そうなんだ、マーマレードね

八百屋のおばさんはお医者さんに告げる
―それがマーマレードらしいんですよ
―そうですか、マーマレードですか

誰もマーマレードを知らなかったその町が
マーマレードで一杯になる

待ちに待った月曜日
その町で初めての学校給食が始まり
夢のような色のマーマレードが配られ
子供たちがそれを初めて口にした

子供たちはそれをお母さんに話し
母親はそれを八百屋のおばさんに話し
八百屋のおばさんはそれをお医者さんに話し
やがて町長の耳にまで届く
そして

―今日はマーマレード記念日

  

 

川寒橋

―ほらみて!魚!

学校からの帰り道、一緒に歩いていた娘が川寒橋(がざぶばし)の欄干から身を乗り出して松川の川面を指さした。少し後ろを歩いていた僕は慌てて彼女の指し示す方向に目線を走らせた。でも何も見つけられない。いつもと同じ深い緑色の静かな流れだけ。

―もう遅いわよ

いたずらっぽい笑みを浮かべるとその娘は何もなかったかのように歩道をまた歩きだす。そして僕はいつものようにだまって彼女の後ろをついていく。
ほどなくその娘は転校して僕の前から姿を消した。特段、僕だけに別れを告げるわけでもなかった。そしてしばらくした秋のこと。僕はそれからも学校の行き帰り、少し遠回りとなるその橋を通ることにしていたのだが、ふと松川の川面をみるとさざ波の下を動き回る黒い影たちとそれがときおり銀色に光るのが見えた。それは群れをなしておよおよと自在に形を変えている。

―魚影だ!

家に飛んで帰った僕は弟から釣竿と魚籠を借りると橋へと一目散に引き返した。弟は釣り場をしつこく聞いてきたが黙っていた。これは僕しか知りえない秘密の場所なのだ。さっそく橋の袂から河原におりるとすぐに釣り糸を垂らす。すでに日は傾いてひんやりとした風が川面を滑っている。

ふと背後から誰かが近寄る砂利の音。振り向くと同じ年頃の青白い顔をした少年だ。でも見知らぬ顔なのでほっとする。隣の学校の生徒だろうか。その少年は魚籠を覗き込んだあと、僕の隣に並んで座って釣り糸をだまって眺めていた。横顔のまま言った。

―釣れそうなのかい?
―いや、まだ始めたばかりさ

2時間ほどたっただろうか。魚は一匹もつれないばかりか、かする程度の当たりすらない。すっかり日は落ちて対岸の家の灯りが川面に揺れ始めている。僕はあきらめて帰ることにした。

―今日はだめみたいだ。出直そう

そう独り言のように言って釣竿をたたむと河原を歩き始めた。ずっと隣に座っていた少年も立ち上がったかと思うと僕の背中に向かって言った。

―君は知らないみたいだけど、この松川は吾妻山系から流れているから水が冷たく過ぎて魚は住めないんだ。え?いつからって?それはずっと昔から、もちろん君たちが生まれるずっと前からさ

  



下町横丁的リアリズム

通勤の日々が始まって気が滅入ることが多くなった僕は、ある日意を決して地下鉄を途中下車した。人形町、小さな居酒屋が立ち並ぶ甘酒横丁。安普請の低い軒の店がこれでもかというほど立ち並ぶ。通りでは肩を組んだ学生たちとすれ違う。開け放たれた店の入り口からは野球のテレビ中継と歓声が上がっている。僕は「やきとりや」がかろうじて読み取れる店の暖簾をくぐった。

 


将棋盤を持った浴衣姿の二人が今日の勝負の反省会をしている。ベレー帽をかぶったお爺さんが身ぶり手ぶりで若者二人にうんちくを語り二人は神妙な顔つきで聞いている。戦後間もなくの国体で陸上選手だった人がテレビをみながらかつての武勇伝を語っている。店のおばさんは忙しそうに手を動かしながらもそれにやさしくこたえている。片隅にはコップ酒をあおりながら店内の騒がしさに顔をそむける人がいる。

見知らぬ人たちの見知らぬ会話がとても温かく胸に響く夜だ。同じ場所に集う人たちの顔が一人ひとりなぜかよく見える。僕はそこで様々な人生を見つける。居酒屋の人いきれは人生の人いきれだ。暖かいのに少しだけ寂しいひといきれだ。そして居酒屋を取り巻くあらゆる感傷のもとにあるのはきっと郷愁である。僕たちは故郷を離れ遠く船出している。何が待つともしれぬ荒波の果てに。希望に燃えて家を出た時の靴の底は絶望の歯で削り落とされ、凍える魂は癒されることもなく荒波を漂いつづける。そして、ふと立ち寄った港町のはずれの居酒屋で遠い故郷を思うのだ。

江戸の頃、下戸というのは最大の野暮であった。だから酒の飲めない人も無理に酔ったふりをしたそうだ。そんな強がりの気風は今でもこの界隈に残っている気がする。この若者二人と語る近所の左官屋らしいお爺さんも、野暮な仕事の話はしないようにしているけれど、時折仕事中の厳しい顔が時々横切ってしまうのがわかる。元来、世間には用事という下世話な話がひしめいていてその一つ一つに多くの人間が集まっている。その用事の周りに集う人間の集団が本質的でありえないのは用事なんてものが本来的でないからだ。僕たちの暮らす社会なんて貧弱だ。社会というものの観念的な部分を除去したら残るのは普段身の回りにいる一握りの人たちとそれをかろうじてつなぎ止めている用事だけである。

この居酒屋に集う人間たちには用事がない。気が遠くなるくらい偶然に出会った人たちである。だからこそ彼らの言葉は真実でありそれがゆえに優しくそして厳しいのだ。さて、ここに書いていることはおそらく料簡が狭い、世界を見ていない、小市民的である。そんなことは百も承知だ。僕にとって世界に目を向けるよりも今日、そして明日を元気で生きることの方がはるかに大事だからである。

 

 

コイコイさんのこと

就職をひかえた12月8日、からっ風の吹く銀座通り。バイト先の虎ノ門に向かう途中、交差点で信号待ちをしていると、デパートの電光掲示板に読みにくい文字で短いニュースが流れた。「元ビートルズのジョン・レノン氏、ニューヨークで暴漢により射殺」。立ち止まったままそれを幾度となく見ていた。

虎ノ門で銀座線をおりてアメリカ大使館を通り過ぎたところにバイト先の特許事務所がある。

 

仕事はタイプされた明細書を手書き原稿と見比べてチェックすること。特許事務所には得意とする分野がある。その事務所が得意とするのは薬品。だから明細書には亀の子型の化学式が並ぶ。気持ちいいくらいわからない。でも時には面白い特許も受け付ける。例えばジュースの自動販売機。冷たいものと温かいものを一台でこなす特許。今では当たり前だがそれは僕の手を通り過ぎたものである。かすめただけだが。

事務所の先輩に小出さんがいた。40代の物静かな人で何かと仕事の相談に乗ってくれた。タイピストが誰かをよく見ること、この人は大丈夫、この人には要注意、とこっそりと教えてくれた。その日の事務所は有馬記念の話題で持ち切りだった。いつもは口数の少ない小出さんもグリーングラス1本で狙うと熱っぽく語っている。僕はみんなが賭け事好きな理由をなんとなく知っていた。同じビルの階下に日本自転車振興会があるからだ。平たく言えば競輪である。

その日、退勤時間近くになると小出さんが声をかけてきた。「今日は元気ないね。一杯飲みに行こうか?」突然の悲報に触れて、今夜はバンド仲間でも誘って酒を飲もうかと考えていたので二つ返事。それから小出さんにつれられて高円寺へと向かい、彼の行きつけのスナックに到着。

 


紫色の扉をあけると「あら、コイコイさん、久しぶりー」と声がかかる。僕は生まれて初めて口にする度数の高い洋酒と暗く隠微な店内、そしてそこに集う大人たちのムードにすっかり酔った。店のママさんとコイコイさんの会話。

 ―最近、仕事忙しいの?
 ―うん、ちょっと。少し疲れててね

コイコイさんはグラスを傾けながら遠くを見つめてそう言った。僕はその姿がかっこいいなあと憧れた。そして「少し疲れててね」はいつか自分も言ってみたいと思った。その晩は終電時間を過ぎてしまい木枯らしの中、京王線明大前のアパートまでとぼとぼと歩いて帰った。

それから間もなくして就職、そして時は流れ、僕は当時のコイコイさんの歳もとっくに追い越した。そしてバーなどに行って「少し疲れててね」を口にすることもある。そして気がついたのだった。その言葉の通り本当にただ辛いだけであることに。そうだよね、コイコイさん。