★Beat Angels

サル・パラダイスよ!誰もいないときは、窓から入れ。 レミ・ボンクール

空蝉

 

気がつけば私は一人旅の途上であった。今夜のうちに隣町までたどり着く必要がある。そのためには国境の川を渡る必要がある。しかし、川上で大雨が降っていて川かさが増している、鉄砲水も出たそうだと誰かが話しているのを聞いたような気がした。私は田んぼの中の一本道を一人、国境に向かって少し急ぎ足で歩いて行った。こんな辺鄙な田舎のはずれではすれ違う人もいない。街灯もない真っ暗な道を手探りをするように歩を進めた。聞こえるのは自分の足音だけだった。

やがて道の向こうにぼんやりとしたちいさな明かりが見えてきた。それはやや赤みを帯びていて道をぼんやりと照らしている。目を凝らすと、さらにその向こうに川の土手のような少し高さのある壁のような黒い影が続いているのが見えた。私はこれが国境の川だと思って少し安心した。

その明かりというのは居酒屋の提灯であった。そして私が歩いてきた道は川沿いの道と交差して土手には石段があった。きっとそこに橋があるのだと思った。そしてその交差点にその居酒屋はあった。居酒屋の前には国境を示す道祖神があった。私は居酒屋のたたずまいにどこか懐かしさを感じて思わず引き戸を開けた。

中では厨房で老婆が一人で切り盛りしているようだった。奥のテーブルには4人の若者が座ってひそひそと話している。客はそれだけだ。私は手前のもう一つのテーブルに座って老婆に洗面所の場所を尋ねた。老婆は入り口の引き戸を指さした。私はそれが店の外にあるのだと理解して外に出た。裏手に廻ると確かに居酒屋に寄り添うような小さな洗面所を見つけた。

数年前に亡くなった父が生まれたのは大久保という村だったが、その家の洗面所も家の外にあった。私も父に連れられてなんどかその家に行ったが真夜中に一人で家の外に出て用を足すというのはとても怖かったのを思い出した。

私はテーブルに戻りビールを注文して飲んだ。奥のテーブルの4人は相変わらずひそひそと話をしていた。聴こうとしているわけでなないが会話の断片が耳に届いた。「・・・村祭りは・・・テツオの・・・」村祭りの相談なのだろうか。そういえば父は酔うとよく大久保村で暮らした頃の昔話をしていた。そこでもテツオという同級生の名前が出てきた。確か、地理の勉強が得意だったはずだ。日本史が得意な父といつも張り合っていたらしい。

不意に店のラジオが鳴りだした。雑音に埋もれていたがどうも防災の緊急連絡のようだ。「・・・橋が・・・通れない・・・」その2つの言葉だけ聞こえた。すると若者たち4人は急に立ち上がったかと思うと店を出ていった。私はその一行の中に見覚えのある人の面影をみたような気がした。店の引き戸が締まると4人は大きな声で「いけー!」と叫んで走り去る声が聞こえた。それから咆哮を上げながら土手のうっそうと茂る草の中を駆け上っていく音がした。

私は店の老婆に尋ねた。「おばあさん、そこに石段あったはずだよね?」しかし老婆は答えない。私は不安を覚えてまた尋ねた。「さっきのラジオで言ってた橋って・・・まさか・・・」老婆は答えず洗い物をしている。そして私は聞いた。「この町の名前は?」老婆は手をとめて私に向き合って答えた。

「町じゃねえ、村だ・・・大久保村だ」

私は駆けだして店の外に出た。若者たちは堤防の道を大声で笑いながら歩いている。私は石段を駆け上がった。すると橋は濁流にのまれ無残にも途中で崩れ落ちていた。私がその橋の向こうを見るとあの4人組がいた。橋が落ちていけないはずの向こう岸の堤防で楽し気に笑いながら歩いていた。いや、動き方がおかしい。彼らは歩いていない。滑っていたのだ。4人はみるみる遠ざかっていく。私は夢中で叫んでいた。

「おとうさーん!」