その日、僕は仕事先のとある町にいて、踏み切りでぼーっと電車が通り過ぎるのを待ちながら、会社に戻るのをはやめることにした。その日、得意先の社長に新聞広告の企画を一蹴されて追い返されたことも一因だったが、そんなにもは日常茶飯事だったし、どうせ会社に戻ったところで退勤時間はとっくに過ぎているだろう、という単純な動機だった。でも、その日偶然にあの懐かしい町の名前を電車の路線図に見つけなかったら単純な思いつきで終わっていただろう。毎日仕事に追われているせいか、少年時代を過ごしたその街のいつも近くまで来ていることに気づきもしなかったことが、とても不思議なことに思えたのだ。
僕は、そんな訳でいつもと反対のホームの電車に乗り込み、懐かしい街に降り立った。
僕は駅のコインロッカーに重たい鞄を放り込み、子供の頃に住んでいた町に向かってあるき出した。もう午後4時を回った頃、塾通いの子供たちとすれ違う。僕の頃はこの街には塾なんてなくて、放課後といえば群れをなして広場を駆け回っていたもののだ。でも僕は残念ながら泣き虫だったが。
昔の記憶を頼りに歩いていくと、かつての鬼ごっこの舞台でもあった路地裏を見つけた。大通りには高いビルが立ち並びすっかり様相は変わったが、細い道は相変わらずだ。その道の突き当たりに小さな駄菓子屋があったはずだ。当時は耳の遠いおばあさんが店番をしていた。
その路地裏を進んでみると、その駄菓子屋は大きな家に囲まれるようにひっそりとまだあった。当時、ひっきりなしに出入りしていた子供の姿はない。僕は恐る恐るガラス戸をあけておばあさんを読んでみた。
「くださーい」
店番のおばんさんは耳が遠いので2倍の声をださないといけなかったことを思い出した。
「くださーい、くださーい」
すると、奥の方から、
「うるさいわねえ」
と不機嫌な声がして奥さんらしき女性がでてきた。僕を見るなりはっとして、
「どうもすみません。子供かと思ったもので」
といって謝った。僕も逆に気恥ずかしくなり、
「ちょっと見せてください」
とだけいって店先に並ぶおもちゃに目を落とした。
しばらくして入り口の戸ががらりと開いて初老の男が3歳くらいの小さな男の子の手を引いて入ってきた。色白でかなり太っていて、頭には白髪が混じり初めていた。奥さんが言った。
「あらシンちゃん、ケイタ君を連れてきていいの?ちゃんと言ってきた?」
「ケイちゃんがついてくるんだもんなー。なー、ケイちゃん」
シンちゃんと呼ばれたその男は屈託のない笑顔で答えた。まるで友達同士だ。その男は子供にガムを買って与えると、
「公園に行こうな」
といってその店を出て行った。店の奥さんは、
「シンちゃん、無駄遣いしちゃだめよ」
と背中に向かって言った。
僕は店の片隅でそんな光景をぼんやりと眺めながら、その男が他でもない僕の少年時代のシンちゃんであることを思い出していた。僕はシンちゃんを追い掛けて店を出た。
シンちゃんは当時もいつも小さい子供をつれていた。当時の親たちはいつも忙しくて子供の世話をしてくれるシンちゃんは結構重宝されていた。当時のシンちゃんは30歳くらいだったと思う。小さなアパートに暮らしていて、昼間は町外れのオルゴール工場で働いていた。
でも子供たちは、小学校の高学年にもあるとシンちゃんを馬鹿にしてからかいはじめるのだった。泣き虫だった僕はいつまでもシンちゃんを卒業できなかった。友達にいじめられるといつでもシンちゃんの背中を追いかけていた。
「なーんだ、ター坊、またなかされたのか?」
『シンちゃん、君も年をとったな』僕はシンちゃんの背中を見ながらつぶやいた。その時、僕の後ろからサンダルの音が小走りに近づいてきて僕を追い抜いた。エプロン姿の主婦だった。彼女はシンちゃんを呼びとめ、厳しい口調で、
「シンちゃん、だめじゃない。探したんだから」
と言って、シンちゃんから子供を引き離した。
「えへへ」
シンちゃんは、笑っただけだった。
「えへへじゃないわよ。今日はピアノの日なのよ。今度連れ出したら警察に言うわよ」
と言い残すと子供をつれて引き返していった。シンちゃんは、一人で公園に向かって歩きだした。
「シンちゃん、あそぼ」
小さな女の子が声をかけた。「ナナちゃん、こんなところで遊んじゃ危ないよ。一緒に公園にいくか?」
川の向こうでそれを見ていた少し大きい女の子が、
「なな、お母さんがシンちゃんと遊んじゃいけないっていてたでしょ」
女の子は、
「また遊ぼうね」
と言って姉のもとへ駆け出していった。シンちゃんの世界はどんどん小さくなってしまっていたのだ。街から路地裏が消え去っていくように。
結局、僕は声をかけることもできすに、町外れの公園まで来てしまった。すでに夕闇が迫った公園には人影もない。シンちゃんは一人でベンチに腰掛けて、誰もいない公園を眺めていた。僕は恐る恐る声をかけてみた。
「シンちゃん、今日もオルゴール工場で働いていたのかい?」
「オルゴール工場はとっくにつぶれた」
シンちゃんは、僕の顔もみずに答えるとそのまま黙ってしまった。そう、シンちゃんは大人とは話をしないのだった。僕はもう大人だった。
「泣き虫たー坊ももう大人だもんな」
僕はシンちゃんの前に立って言った。
「僕のこと覚えてる?」
シンちゃんは見あげると目をまるくして僕をしばらく見て、首を横に振った。
「覚えてないよね。君にはたくさん友達がいたし」
そういって目をそらすと、ベンチの下に誰かが忘れたフリスビーが落ちていた。
「あ、フリスビーだ。これ僕得意なんだよ」
僕はそれを思いっきり空に放りあげてキャッチしてみせた。
「うまいねー」
シンちゃんは目を輝かせた。
「うまいだろ、シンちゃんもやってみないか?」
シンちゃんも立ち上がり、僕は背広をベンチに放り投げてシンちゃんと距離をおいて向かいあった。シンちゃんはすぐに上達した。僕も熱中してしまい、少しづつだが子供の頃にもどっていくような錯覚に陥った。そのとき、シンちゃんの手元がくるって放り投げたフリスビーは僕の頭上を大きく超えていった。年を忘れてはしゃいでいた僕は、届くはずもないのに思いっきりジャンプしてしまい、その拍子に砂場にどすんとしりもちをついてしまった。その鈍い痛みが全身を走った。シンちゃんが笑いながら僕の方に歩み寄ってきた。
「だめじゃーん、たー坊」
僕はあっけにとられ尻の痛みも忘れてシンちゃんの顔をみつめていた。
「早くたちなよ、たー坊」
「そうだよ!シンちゃん!たー坊だよ!泣き虫ター坊だよ!」
僕は不覚にもあだなのとおりのター坊になっていた。砂場にしゃがんだまま泣き崩れてしまったのだ。やがて、しばらくして気がつくと、公園はすっかり日が暮れていて、僕は一人だけだった。気がつくと背中にはベンチにおいたはずの背広がかけられていた。
僕はシンちゃんとその街に別れを告げて再びいつもの生活に戻った。でもあの日のことは忘れられない。あの日帰りの電車の窓から見た光景とともに。走り出した電車の明かりは踏み切りで待つ、父と娘の二人連れを映し出した。その二人は、銭湯の帰りなのであろう、おそろいの洗面器をもって踏み切りに立っていた。そして、その父親というのはまぎれもなく、あのシンちゃんであったのだ。