★Beat Angels

サル・パラダイスよ!誰もいないときは、窓から入れ。 レミ・ボンクール

アポロ月着陸船

 4時間かけて完成しました。

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 いろいろな種類があったのですが、メタルの質感からこのアポロ月着陸船を選びました。高さは約5cmとコンパクト、精密さが際立ちます。

 これが下部。ディテールにもこだわりがあります。

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 上から。

 どの方向から見ても精密です。本当は下の噴射口が素敵なのですがちょっと曲面がうまくできませんでした。

 

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 もともとはこんな感じ。工具はニッパーとラジオペンチだけ。曲面の成形の滑らかさと勘合部の仕上がりで完成度が決まります。

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 パーツの数で値段が異なります。詳しくはこちらから。

 

テンヨー|メタリック ナノパズル|オンラインカタログ

 

 次は、もっともパーツの数の多いこれにチャレンジしたいと思います。

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詩人としてのボブ・ディラン

 ボブ・ディランが2016年のノーベル文学賞を受賞して話題となっている。あまり知られていないがこれまでも候補として名前は上がっていたらしい。

 同じアメリカの詩人であるT・S・エリオット('88~'65)は、1922年に『荒地』という長編詩を発表し、戦争前後を通じてのアメリカ詩壇のリーダであった。そして1948年にやはりノーベル文学賞を受賞している。エリオットの詩は物語性を排除し、神話や古典文学を断片的に引用するもので、発表当時こそその手法は前衛的と評されていたが、戦争を経た頃になると、破壊よりもむしろ秩序、知的・緻密さが前面に出るものとみられるようになった。こうして戦後のアメリカ現代詩の状況は保守的で生気に欠けるものとなっていた。

 当然、こうした沈滞状況には革命が訪れる。それは1941年生まれのボブ・ディランが物心ついた50年代の後半を迎えてである。眠っていたアメリカ現代詩を過激な方向にもっていこうとする動きがいくつか起こった。そして、その急先鋒がビートであった。

 

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 当ブログのタイトルでもあるこの写真は実はビート派の代表者3人が移った珍しい写真である。右からW. バロウズ、A.ギンズバーグ、そしてJ.ケルアックの3人。ギンズバーグはビート最大の詩人である。ケルアックはご存知ビートの教祖、バイブル『路上』の作者、バロウズはクローネンバーグ監督作品にもなった代表作『裸のランチ』の作者、そしてなぜかバロウズ・コンピュータの創業者の孫でもある。

 ビート派は当時、急速にアメリカに広がっていた「若者文化」「ヒッピー文化」とも連動して社会現象となった。ディランはビート派に影響を受けながら、ビートにも影響を与える存在であった。

  

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 これは1975年、J.ケルアックの墓前に詣でるディランとギンズバーグの写真である。アメリカの戦後を代表する詩人はこの二人だといっても過言ではない。

 彼らの代表作を並べてみる。これら2つの詩はこのまま即興的に延々と書き連ねていくところも共通点である。

ぼくは見た

新生児のまわりに野生の

オオカミたちが群れをなすのを

ぼくはみた

ダイヤモンドの高速道路に

人っ子一人いないのを

ぼくは見た

黒い枝から

血が滴っているのを

 

ボブ・ディラン激しい雨が降る』

 

ぼくは見た

狂気によって破壊された

ぼくの世代の最良の精神たちを

飢え、苛立ち、裸で

夜明け前の黒人街を

腹立たしい一服のヤクを求めて

のろのろと歩いていくのを

 

アレン・ギンズバーグ『吠える』

 

 ディランというと「反戦」の用語でくくられることが多いが、有名な『風に吹かれて』も「答えは風の中で舞っている」というぼやかした表現をとっているし、実際に社会運動に参加したりすることはなかった。

 ビート詩人たちが糾弾したのは権威・支配階級だけではなかった。戦後の急成長によって急増した中産階級の順応的・画一的な保守性でもあり、それはそれまでアメリカの現代詩を支えてきた保守性、つまりは先のノーベル賞詩人エリオットに象徴されるものであった。

 さて、ディランの今後については授賞式に来るのか来ないのか話題となっているが私にとってはどうでもいいことである。エリオットがもらってディランがもらわない理由は全くない。でも、ディランがもらってなぜギンズバーグに授与されかったか('97没)、を考えるとシステムとしての不健全さばかりを考えてしまう今日この頃である。こと文学に至っては没後ある程度の年数を経過しないと真価を断ずることはできないのではないだろうか。

 

 最後にディランの言葉で締めくくりたい。

ほとんどが心に自然に浮かんできた曲だ。夜中、そろそろ寝ようかと思ったときに向こうからやってきたような曲ばかりだ。 

  これを信じて待つこと早40年、である。

柿の木のある家

 わが故郷の家の庭には一本の柿の木がある。私が3歳の時、父と訪れた縁日で苗木の形で買ってきたものである。それは当時玄関先に無造作に植えられた。それから桃栗三年柿八年。私が小学校高学年になる頃に柿の木は初めての実をつけた。そしてそれが残念なことに渋柿であったことも同時に判明した。

 そして今年も柿の実の季節である。現在、故郷の家は普段だれも住んでいない。このまま柿の実が熟して落ちてしまうのではないか、という不安の声がご近所の方々から聞かれたこともあり、先週末を利用して柿を取りに行ってきた。

 

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 柿の実をマジックハンドのような剪定はさみで切り落としていると周りで鳥たちが一斉に鳴きだした。そう言われて思い出してみると、鳥たちは実ったばかりの渋柿には眼もくれない。でも、柿の実がさらに熟して落ちる寸前になると甘く変わるのか、実をついばんでいるのを見かけた。

 鳥たちは今回私に柿の実を全部とられると思ったのだろう。そこで枝の頂上付近の柿の実20個ほどを、切らずに残してあげることにした。 
 

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 正確に数えてはいないが推定で250個。

 柿の渋を抜くためには焼酎が使われる。アルコールが酸化してできるアセトアルデヒドが渋の原因であるタンニンを不溶化させることとで渋みが取り除かれる。近所のスーパーに焼酎を買いに出かけた。その途中、麦がいいか、芋がいいかと考えながら歩いていたが、スーパーの酒コーナーを見ていてそんな迷いはすぐに吹き飛んだ。柿の渋を抜く専用の焼酎を見つけたのである。

 その名も・・・

 

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 原料用アルコール。濃度も47%と高い。ちょっと飲んでみたが薬品のようでだめだった。確かにこれが美味しいとしたら値段も手ごろだし、ヒット商品になるであろう。

 

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 ラベルに書かれた手順に従って、焼酎に浸した柿をビニール袋に詰め込む作業に追われた。このまま室温で放置すれば5日間ほどで渋が抜けるはずである。柿が色づいたことを知らせてくれた御近所の方々にはビニール袋のままおすそ分けした。

 あらためて柿の木を眺めてみる。幹の表皮も色あせてきて老木の雰囲気も漂う。それもそのはず樹齢は50年を超えているので寿命を迎えてもおかしくない年代である。

 

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 柿取りと渋抜きの作業一通り終えて庭を眺めながらタバコを一服していると、季節外れの黄色い蝶が庭に舞い込んできた。それは小さめの蝶で動きがとても素早い。蝶は柿の木の周りを何かを確かめるように飛んだかと思うと庭を一巡りし、最後に私の目の前を斜めに横切ったあと、青い空の向こう側に吸い込まれるようにして消えていった。

上州新田郡三日月村を訪ねて

 木枯し紋次郎

上州新田郡三日月の貧しい農家に生まれたという。十歳の時に故郷を捨てその後、一家は離散したと伝えられる。天涯孤独な紋次郎がなぜ無宿渡世の世界に入ったかは定かでない

  

 秋の上州路、一面に広がる田、まもなく稲刈りのシーズンをむかえようとしている。私はそんな中を一路、三日月村を目指して歩いていた。頭の中には芥川隆行の名ナレーションと上条恒彦の力強い歌声がこだましていた。

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 雨が降り出しそうな中、険しい山道を進んで峠に差し掛かると三日月村への入り口があった。関所の形をしている。

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 『地蔵峠の雨に消える』

 

 しばらく山道を進んでいくと立場(たてば)と呼ばれる休憩所があった。かつては篭屋や馬子、人足などが休憩した場所である。

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 『馬子唄に命を託した』

 

 さらに進んでいくと、宿場町のたたずまいが見えてきた。 

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 宿場の入り口には水車小屋。普通は精米のためのものだが、ここ三日月村ではそば粉の製造に使われている。構造的にこの水車には釘が一本も使われていない。

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 『夕映えに水車は軋んだ

 最後のシーンは横に倒れた着物の女性の帯が風に舞っているところで紋次郎は長楊枝を吹いてその帯を水車に突き刺す。水車は帯を巻き取っていき、女性はぐるぐる地面の上を廻り、着物がすこしづつ脱がされていくというものだった。当時、小学生だった私たちに与えた精神的な影響は計り知れない。
 

 宿場に足を踏み入れると、まずは茶屋

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 そしてその隣には蕎麦屋

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 蕎麦屋の店内に入る。中央に囲炉裏、奥の壁には紋次郎の合羽と笠が無造作に掛けられている。

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 ところ天を注文、値段は3文。寛永通宝をテーブルの上に転がす。コトン、という低く鈍い音が心地いい。

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 三日月村では昔のお金しか使えない。関所の隣に両替商があってそこで交換してくれた。為替レートは1文=100円。

 街はずれには居酒屋がある。まだ日は高い時間なので準備中であった。上州名物麦焼酎、名酒『赤城山』には心惹かれるものがある。

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 そして、旅籠、上州屋。今日はここに泊まろうかと思うが、実は今日中に訪ねねばならないところがあった。

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 『童歌を雨に流せ』

 

 それは紋次郎の生家である。

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 いまにも風に吹き飛びそうなほど荒れ果てている。紋次郎は10歳の時にこの家を出て行ったのである。そして家の隣には墓と地蔵。

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 『無縁仏に明日をみた』

 

 紋次郎の生家に別れを告げ、温泉郷を目指して先に進んだ。やがて国境の峠に出る。こちらにも関所が設けられている。

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 『見返り峠の落日』

 

こちらには紋次郎の記念碑があった。

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三日月村に別れを告げ、赤城に抜ける街道に出て進むとそこには、

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 東武線の藪塚駅。浅草から特急で1時間版40分ほど。三日月村は実はテーマパークであり、この駅から徒歩で20分ほど。隣にはスネークセンターがある。土地の方にはむしろこちらを勧められたが今回は時間なく断念した。

 

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今日はおりしも、藪塚かかしまつり、の日でもあった。

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奇数角形のこと(その2)

以前、英国に7角形の硬貨があることを紹介した。その続きである。 

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 マンホールの形はほとんどが円形をしている。それの理由は蓋が穴に落ち込まないためである。マンホールは幅がどの角度においても一定になることがその形に要求される。そうなければ角度によっては蓋が穴に落ち込んでしまうのである。これを満足する図形を定幅図形というが、定幅図形の形状として許されるのははたしてだけなのであろうか。

 答えはNoである。ドイツの機械工学者であるルーローが発見したルーローの三角形などがそれに含まれる。

 

 

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 このギターのピックのような形状は、ロータリー・エンジンの形状にも採用されているのでおなじみであろう。東京スカイツリーでも中腹部の断面はこの形をしている。定幅図形は三角形だけではない。奇数角形ならばすべて定幅であることが証明されている。英国の7角形の硬貨はルーローの7角形と呼ばれる図形である。作図方法は下図を参照されたい。


 

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 さて、これらが実際に定幅であるかを硬貨と定規を用いて実演してみた。

 

 

 ご覧のとおり、最後に登場したのは実は同じく英国の10角形の硬貨である。実際に滑らかに回りにくいのは角がとれていないことが主要因であるが、仮に軽いカーブであった場合でも偶数角形である10角形の場合は定幅図形とはならず、凸凹した動きになってしまう。

 さて、英国でこのルーローの7角形が硬貨の形状として採用されたのか、という疑問についてだが、推測してみると、

 ①硬貨は自動販売機に使用される。
 ②硬貨が本物であるかを識別するのに挿入された硬貨の幅をチェックする。
 ③そのため形状は定幅図形でなければならない。
 ④つまり、円かルーローの奇数多角形のいずれかでなければならない。

 これらから滑らかで円に形状が近い7角形が選定されたのだと思う。円と違ってルーローの多角形は重心が図形の中心からずれている。それが3角形の場合に最も顕著となるので3角形は敬遠されたのだと推測する。前回記事で東京スカイツリーが傾いて見える理由でもある。

 では、そもそもなぜ円ではいけないのか、という指摘もあるだろう。それに対しては次の答えがある。同じ等しい幅を実現するために必要な図形の面積についてである。これについては、円は定幅図形の中で最も効率がよくない、つまり材料をたくさん使ってしまう贅沢な形状であることが分かっている。ルーローの3角形が最高効率、つまり面積は最小となる。奇数2N+1角形でNが増えていくに従って、次第に円の面積に近づいていく。

 自動販売機の幅のチェックだけを考えると、世界中のコインをルーローの三角形としたら、世界規模で金属資源の節約ができることになる。もちろん、マンホールのふたとしても同じく適用可能である。

 

水と緑と詩のまち:前橋

 社用で前橋を訪れた。翌日が休日だったので前橋市出身の詩人・萩原朔太郎の詩集を片手に市内をぶらついた。以下は『郷土望郷詩』からの抜粋と市内の風景を収めたものである。

 

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 新前橋駅 

 

野に新しき停車場は建てられたり
便所の扉風にふかれ
ペンキの匂い草いきれの中に強しや
烈々たる日かな

 

 新前橋駅は操業開始が1921年(大正10年)、朔太郎が35歳のときであった。まだ駅の周りは野原で草深かったのであろう。

 

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 広瀬川

広瀬川白く流れたり
時さればみな幻想は消えゆかん
われの生涯を釣らんとして
過去の日川辺に糸をたれしが
ああかの幸せは遠きにすぎさり
ひさき魚は眼にもとまらず

 

 広瀬川沿いに朔太郎を記念した前橋文学館がある。

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 思索にふける朔太郎の銅像

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 江戸川乱歩とのコラボの展示会。テーマは「パノラマ・ジオラマ・グロテスク」。乱歩との意外な共通点と交流を展示。ちょうど前橋まつりの日だったので入場料は無料であった。

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 乱歩と朔太郎はお互いに敬意を払い、分野は違えども刺激を与えあう仲であった。そういわれてみると、朔太郎の作品にも「殺人事件」というのがある。

 殺人事件

とほい空でピストルが鳴る
またピストルが鳴る
ああ私の探偵は玻璃の衣装をきて
こひびとの窓から忍び込む

 

  群馬県庁ビルの32階の展望台。利根川の雄姿。

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 大渡橋

ここに長き橋の架したるは
かのさびしき総社の村より
直として前橋の町に通ずるならん

 こちらが利根川の上流側、左手奥には榛名山系の影が見える。

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 利根の松原

日曜日の昼
わが愉快なる諧謔は草にあふれたり
芽はまだ萌えざれども
少年の情緒は赤く木の間を焚き
友等みな異性のあたたかき腕をおもへるなり
 

  昼下がりの前橋公園。

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 公園の椅子

 人気なき公園の椅子にもたれて
われの思ふことはけふもまた烈しきなり
いかなれば故郷のひとのわれに辛く
かなしきすもものたねを噛まむとするぞ


  この「公園の椅子」という詩の中で朔太郎は最後に椅子にナイフで「復讐」の文字を刻む。郷土望郷詩集を全体的に覆うのはこの故郷・前橋に対する複雑な感情である。純情小曲集の冒頭のあいさつの中にはこんな一文がある。

郷土!いま遠く郷土望景すれば、万感胸に迫ってくる。かなしき郷土よ。人々は私につれなくしていつも白い目でにらんでいた。単に私無職であり、もしくは変人であるという理由をもって哀れな詩人を嘲笑し、私の背後から唾をかけた。「あそこに白痴が歩いていく」そう言って人々が舌を出した。 

 

 郷土に対する複雑な思いは金沢出身の詩人・小説家である室生犀星、そして彼の有名な詩「故郷は遠きにありて思うもの」の思いに通じる。そして朔太郎・犀星は無二の親友同士だった。この前橋文学館が編集した『萩原朔太郎室生犀星の交流』はそれを調べ上げ、描ききった力作である。

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 特に感慨深いのは中央亭騒動事件。1926年、朔太郎が東京の田端で喧嘩に巻き込まれた、と早合点した犀星は朔太郎に加勢しようと椅子を振り回しながら駆付けたらしい。芥川龍之介もその場にいてその光景を楽しんで眺めていたらしい。なんとも血の気の多かった時代である。

 朔太郎・犀星の二人が並んだ写真、微妙な距離感で仲良く煙草を吸っている。

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 さて、その日はちょうど前橋まつりの日。ハッピ姿の老若男女が走り回り、パレード・鼓笛隊の音、神輿を担ぐ掛け声、そして人々の歓声が町中にあふれて活気に満ちていた。

 

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 今回の前橋ツアーで訪問先の会社さんからいただいたお土産。高崎の銘菓である。おいしくいただきました。この場を借りてお礼を述べさせていただきます。

 

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芋煮とエッシャー

 はっきりしない天候が続いているが、東北地方からは時節柄、芋煮の便りが聞こえてきている。今年は本場の山形では6mの大鍋も登場し、クレーンを使って一度に3万食分賄ったそうだ。

 

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 近所の人たちや同級生たちで集まり、河原で作って食べた芋煮の味は今でも忘れられない。

 

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 さて、話は変わり横浜駅前の百貨店で開催されていたエッシャーを見に行った。元々は長崎のハウステンボス所蔵品である。 

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 有名な作品はほとんど展示しており、見ごたえがあった。というのもエッシャーの作品は日本の浮世絵と同じく版画なのだ。本物といえば本物、量産品といえば量産品である。版木さえあれば今現在でも製造可能である、ということである。

 それと初めて知ったのは日本でエッシャーの名を有名にしたのは、 

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 少年マガジンであったという意外な事実。表紙に積極的にエッシャーの絵を採用して紹介した。それも原作に忠実でかなり精緻な図柄である。

 それと、会場には実物の版木の展示もあった。こちらは無機質のエッシャーの版画とは違い、手彫りの温かさを感じるものであった。

 それと錯視をテーマとした展示があった。

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 エッシャーの『上昇と下降』の模型。上記のこの絵は展示会のパネル写真の左側をご覧いただきたい。ある方向、角度からみると作品と同じに見える。が、それ以外からだとこんな風にいびつな形である。

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 この方向から見るとボールが坂道を登っていくように見える。それは不思議だがちょっと別な角度から見るとすぐに納得できる。

 

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 奥にあるのは鏡。エッシャーとは直接関係はないが、あまりにも異なる形はちょっと不思議。

 

 さて、芋煮の話題で始まり、急にエッシャーの話題に変わって、とりとめもない話をしているようだが、実は私には関連がある。エッシャー展にて実物の版木を見た私は急に版画をやってみようと心に決めた。そして展示会の帰り道には小学校以来の彫刻刀を手にしていたのであった。

 3作の習作(含む失敗作)を経て、記念すべき最初の作品はこれである。

 

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 本当は木版画にしようと思ったのだが、店員さんから初心者で忙しい人はゴム版画 から入るのがいい、と勧められた。確かに彫刻刀の手ごたえはやさしいものだった。でも、いつかは木版画、そして最終的には銅版画にチャレンジしたい。

 食欲と芸術の秋の話題でした。