★Beat Angels

サル・パラダイスよ!誰もいないときは、窓から入れ。 レミ・ボンクール

街並みに刻まれた歴史~野毛町探訪

とある日曜日の朝、野毛の街を歩いてみました。野毛はJR桜木町駅京急日ノ出町駅の間に位置する日本有数の飲み屋街です。300軒ほどの個性豊かな居酒屋が狭い道に軒を連ねています。

 

普段は夜にしか訪れないのですが早朝に歩くのはまた別な趣きがあります。例えば、こんな場所を見つけました。

 
3角形の形をした小さな休憩所です。なぜ、こんな場所でこんな形をしているのかを探ってみると、

 

ここで二つの通りが鋭角に交わることがわかりました。そういわれてみると野毛の街を歩いていると迷子になるときがあります。それはいつも夜のことで酔ったせいなのかと思っていましたが実はこうした不思議な交差点があることがその理由であることに気が付きました。

 

この場所はこのA地点なのですが、続いてB地点です。

 

こちらは川沿いの道ですがやはり2つの道がここで交わっています。角に位置するこのビルも三角形という難しい設計を余儀なくされています。そしてこの交差点にはつじつま合わせのようにこんな休憩所ができてしまいます。

 

この3角形のビルを眺めていて思い出したのがこのビルです。

 

米国西海岸のサンフランシスコのマーケット街にあるPhelan Buildingです。ここでも道は鋭角に交わっていて、その交差点で土地を有効に活用しようと考えるとどうしてもこんな3角形の形になってしまいます。このマーケット街は19世紀にアイルランドからきた技師が設計したものです。

マーケット・ストリートを境界線にして道の方向ががらりと変わります。サンフランシスコ市内を縦断する幹線道路を作ろうという発想なのですが、あまりの大胆さから当然住民の反発は激しかったらしいです。

となると野毛においてはなぜ、いくつもの鋭角に交わる交差点が出現しているのでしょうか。野毛にもサンフランシスコと同じような都市計画のムーブメントがあったのでしょうか。

改めて野毛の街を眺めてみるとこんなことに気が付きました。街を横断して間隔の狭い二本の道が野毛の街を横断しているのです。

 

これが区画の形状を複雑にしている原因です。二つの道の間隔は10m足らず。一体これの正体は何なのでしょうか?

それを調べるために日ノ出町駅の近くにある横浜中央図書館を訪れました。

 

5階建ての威容。横浜市政に関するコーナーは3階フロアの約半分を占めています。そこで一日をかけて調べた結果、これは鉄道のルートだったことがわかりました。

新橋ー横浜間の鉄道が開通したのは1872(明治5)年のことです。当時の横浜駅は現在のここ桜木町駅の場所にありました。高島町に2代目の横浜駅が開業して、この駅は桜木町駅と改称されたのです。

この桜木町駅を通る路線、京浜線(現在の京浜東北線)が1915年に開通しましたが、これを大船方面へ延伸する計画が立ち上がりました。当初の予定は桜木町から西へ大岡川に沿ったもので現在の日ノ出町駅をぬけて南太田方面から永田を経て保土ヶ谷駅を迂回して東海道本線に沿って戸塚、大船へ至るルートでした。しかし、この計画は関東大震災(1923年)により中止を余儀なくされます。

このプロジェクトは湘南電気鉄道(現在の京急)が引き継ぐことになりました。すでにそのころに京急は東京から神奈川駅までの路線を開通させていました。それを桜木町駅まで延伸させたうえでこの野毛-日ノ出町ルートを延伸させようと、そのルートに沿って野毛エリアの土地の買収を行いました。この計画のイメージを次の図に示します。

 

確かに桜木町駅から滑らかに野毛を通り抜けて京急線の路線につながります。

しかし、肝心な横浜-桜木町ルートの敷設の許可が下りませんでした。その理由は、東京横浜電鉄(現在の東急)の介入です。すでに渋谷横浜間を開通させていた東急は、横浜桜木町までの延伸のための申請を先に出して京急の動きを阻止してしまったのです。さて困った京急は、このルートをあきらめて横浜から野毛山をトンネルで抜けるルートを泣く泣く選択したというのです。

そして現在の野毛にはこの計画、夢の残骸が今もこの複雑なルートとして残っているのです。図書館を出た私は、日ノ出町駅から桜木町駅までこの幻の路線にそって歩いてみました。もしも当初の計画通りこの野毛を横断する路線が開通していたらこの街は今頃どうなっていただろうか、こんな飲み屋街は存在しなかったのではないか、そんなことを考えながら桜木町駅の改札へと向かいました。