★Beat Angels

サル・パラダイスよ!誰もいないときは、窓から入れ。 レミ・ボンクール

CAの戦略

飛行機の機内の座席表はこんな感じである。 

 

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 今回、テーマとして取り上げるのはこの中の普通席。写真だとこんな感じである。

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窓側に2席、中央に3席並んでいて通路は左右に二つに分かれている。ここでCAは通路ごとに2手に分かれて飲みものや食事を配っていくことになる。対象となる列と席を図示してみる。

      

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この範囲での席数の総数は140席。CA1とCA2は2手に分かれて飲みものを配っていく。CAは窓際の2席と中央の通路寄り1席の合計2席を受け持つ。これらは左右それぞれ60席で合計120席である。中央の席はCA1,2のいずれも給仕が可能である。CA1,2はほぼ同時にスタートするのだが、乗客一人当たりに必要となる時間は一定ではない。ウイスキーの水割りなどはジュースよりも時間がかかるであろう。選ぶのに時間がかかる人もいれば、世間話をしてくる乗客もいるだろう。こうした影響でCA1,CA2の進度は少しずつずれていく。このことは最後部座席に座る乗客から見ると隣の人がすでに飲みものを手にしているのに自分にはなかなか届かないという不公平感につながる。これをどう抑制していくかが問われる。ここで問題となるのは中央の20席の受け持ち方に関する議論である。

乗客一人当たりにかかる時間は正規分布と考えてよい。正規分布は平均時間と分散(標準偏差)で定められる。

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中央の席の割り当てとしてもっとも単純なやり方である「奇数列はCA1、偶数列はCA2」などのように固定的な方法をとった場合を考える。この場合、CA1,2は合計で70人ずつに給仕することになる。この場合の全体の時間Xは一人あたりの時間xの合計として表される。

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正規分布をとる変数の和についても正規分布となることが保証されている(正規分布再帰性)。70人の場合は、

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のように、平均、分散ともに70倍となる。不公平感の源泉はこの分散の拡大である。給仕時間が時間とともにばらつきが大きくなる様子を図示してみる。

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標準的な飲みものの給仕を考えると、平均時間(μ)は20秒程度、標準偏差(σ)は10秒程度と考えられるので、最終列における給仕の時間のばらつきは、

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の程度、つまり3分のオーダとなり、気が短い人は黙って待てないレベルである。

この固定方式の問題を補う中央席の別な割り当ての方法として「中央席の割り当ては事前には決めない。実際に給仕を進めながら先行している方のCAが担当する」という高度な調整方式が採用されているように思われる。これによると、

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非常に模式的な絵で分かりにくくて申し訳ないが、CA1,2は両者の進度が極力等しくなるように随時微調整を加えながら進めていく。こうすることで最終的に両者の差を1列分(4座席分相当)に抑制することが可能となり、最終列座席の乗客の不公平感を緩和することが可能となる。この調整方式の場合の時間のばらつきは、

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であり、固定方式の場合から約4分の1に縮減可能である。

これはCAの戦略と言っても過言ではないだろう。しかし、その適用は中央の座席数が奇数の場合に限定されてしまうのが残念である。例えば中央が4席の場合は必然的に固定方式となり、調整できず後部座席の不公平感は依然として課題のままである。

以上、座席数自体が少ないハイレベル席に搭乗する方々には無縁のいたって庶民的な分析であった。

B-Side Life

コンサートを終えたミッドナイト
メトロでダウンタウンクラブへ
ベートーベン弾いたさっきのバイオリンが
グリーングラスを切なくうたうよ

気楽が一番New York City
つきさえまわりゃSuccess over Night
バーボンの馬車で朝まで飛ばすよ
いかれたあの娘のピアノに合わせて

しみるね
真夜中の
しみるね
ブルーノート

B-side Life, B-side Life
裏側もまた人生さ
B-side Life, B-side Life
Never never more cry for me


ネオンの"B"の文字が
壊れて点滅してるBar
朝もやの街かど口笛吹くけど
滑り出すのはマイナーコードさ

コートの襟を立てたNew York City
運さえよけりゃ誰でもShining Star
バーボンのボトルに夢だけ沈んで
残ったHeadache奏でる

やばいね
明け方の
やばいね
夢の行方は

B-side Life, B-side Life
裏側もまた人生さ
B-side Life, B-side Life
Never never more cry for me

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ノブヒコと喫煙所での密かな愉しみ

ノブヒコの会社はいくつものテナントが入るビルの中にあり、そのビルの1階には共通の喫煙所があった。ノブヒコが仕事をさぼってタバコを吸っているといつものように彼女が現れる。

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制服を着た彼女は男たちの目線を避けるようにして部屋の隅まで進むとメンソール系のタバコに火をつけた。ノブヒコはそこで彼女に会うことが密かな愉しみとなっていて、毎日何回彼女と顔を合わせるかを手帳に記録していた。それを見るとほぼ3回の喫煙に1回の割合で出会うことが分かった。ノブヒコは一日に10本程度タバコを吸うので、平均して毎日3回程度は顔を合わせるのであった。多い日は5回、少ない日は1回のときもあったが、ここ数ヶ月の間一度も顔を合わせない日はなかった。

ところがある日のことである。ノブヒコはその日喫煙所に合計10回行ったのだが彼女を一度も見かけなかった。ノブヒコはひょっとしたら彼女は風邪でも引いて会社を休んでいるのではと心配になった。そして、彼女が会社を休んでいる確率を計算してみようと思い立った。

ノブヒコはすぐさまベイズ理論に基づいて分析を開始した。
 

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  C:彼女がその日休みである事象(原因)
  R:喫煙所でN回会わない事象(結果)

求めるP(C/R)は、喫煙所でN回会わなかったときに、その日彼女が休みである確率である。今回のケースではP(R/C)は、 

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となる。これは彼女がその日休みならばいくら待っても喫煙所で彼女に会うことはできないという事実に対応している。P(R)は会わない回数がNのとき彼女が休みをとる確率P(C)を用いて、

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と表されるので、求めるP(C/R)は、

 

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となる。右辺に出てくるP(C)は彼女が休みを取る平均的な確率のことであり、それを条件として入力しないと求める確率が出てこない。しかし、彼女が休みを取る確率はまたに求めようとしているものに他ならないように感じてしまう。しかし実は求めようとしている確率は平均的な休みの確率ではなく、まさしく「その日」に休んでいる確率である。ベイズ理論によると前者が事前確率、求めるべき後者が事後確率、と呼ばれているが、それで多少はニュアンスが伝わるに違いない。

平均的な休みの確率P(C)については他の会社の社員である彼女の情報を入手することは難しい。そこで一般的な例として0.3%から33%の間のいくつかのパターンで計算してみた結果を下図に示す。

 

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1回目だけでは、彼女がその日休んでいるかはまだ不確定なので、その確率は平均確率(事前確率)に等しいところからスタートする。会わない回数が増えていくに従って、彼女がその日休みである確率(つまり事後確率)は増加していく。増加の仕方は平均確率の大きさによって異なり、平均確率が比較的高い時(10%)は急激にその日の休みの確率は増加していき10回あたりで90%を超えてその日の休みが判断できるのに対して、平均確率が低い時(1%)では増加は緩慢で20回近くまで続かないと確証が得られない。

ノブヒコは、手帳の記録から彼女がここ50日間は出勤を続けていたことを知っていた。それで平均確率は1~2%程度であろうと推測した。よってこの解析結果から今日彼女が休みである確率は50%程度、つまりなんともいえない、と判断した。もう少しこの確率が高ければこの分析結果を彼女に披露してお近づきになろうと目論んでいたのだがそれは果たせずに終わった。それはノブヒコにとっても彼女にとっても幸いなことであった。

日本語、大丈夫?

先日、舗道を歩いていると電柱に青いタコの絵を見つけたので思わず近寄ってみた。


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「アオダコ運動」という小学校の挨拶運動のポスターであった。「オアシス運動」というのが一般的であろう。アオダコの「ダ」は「大丈夫」だそうである。怪我をしたひと、元気のない子がいたら「大丈夫?」と声をかけてあげよう、という思いやりの言葉である。ちなみに「コ」は「こんにちは」ではなく「ごめんなさい」である。

元来、オアシス運動というのは好きではなかった。どこがかというと、「ス」の「すみません」である。「すみません」は、謝罪のことばで使われているのであろうが、「ありがとう」という感謝の意の代用で使われることも多い。「すみません」は「ありがとう(感謝)」「ごめんなさい(謝罪)」のどちらにも使える都合のいい言葉であり、戦後急速に使われ始めた。とあるジャーナリストはこれが日本語の衰退を招くという論文も発表した。それを読んだ私は共感し、極力すみませんは使わず、ありがとう、ごめんなさいを区別して使うように注意してきた。しかし「ごめんなさい」には使い方に問題がある。目上の人に発するのが憚られる言葉だからである。「ありがとう」には「・・・ございます」とい敬語表現があるのでいいのだが、「ごめんなさい」にはそれがなく「御免つかまつる」というように時代劇化してしまう。これで悩んでいるうちに大人社会に入ると「申し訳ありません」というような免罪符的な言葉を使い始めるようになり現在に至っている。

最近、気になっているのは先に述べた「アオダコ運動」の「大丈夫」である。


これは2年ほど前の記事だが「大丈夫」の使い方の変質はその後も続いていると感じる。たとえばコンビニで買いものをするときの店員さんと会話。

-910円になります。
-(1,000円札を渡す、そして小銭の10円を探す、がなかなか見つからない)
-大丈夫ですか?

これが気になっている。この「大丈夫」は「アオダコ運動」が推奨しているものとは使い道はかけ離れている。しかし、いくどかこれを経験してくると、

-大丈夫です。

と返事をしている自分に気がつく。はいなのか、いいえないのかよくわからない状況で意思を正しく伝えるためには相手の言い回しを真似るのが一番だと自然に反応してしまうのである。さらに輪をかけたのが最近でくわしたレストランの会計の場面での会話。これは女子の高校生アルバイトである。会計で金額と割引のクーポン券を渡したのだが、クーポンは注文のときに渡してほしかったようで、

-今回は大丈夫です。次回は注文のときに券を渡していただければ大丈夫ですので。

これには思わず笑ってしまった。

言葉というのは常に変化し続けるものである。記号としての言葉にはその意味する内容(ラング)と実際に音として発せされる言葉(パロール)の2つ側面がある。ラングは崇高で言語全体を支配するパワーをもつ保守的な絶対君主のようなものである。これに対してパロールも黙って従うわけではない。変化することでラングに反乱をしかけ言語全体に対して揺さぶりをかけているのである。

「大丈夫」という言葉は大和言葉とは異なって強い語感を有し、相手に強い印象を与えることができる。それが現在、若者を中心にいろいろな形で使われ始めている理由のひとつであろう。千円札で支払う際には「小銭があればそのままでない」「小銭がなければそのままでいい」という肯定・否定がクロスしたいて「はい、いいえ」がどちらをさすのかが判然としなくなる。そこで「大丈夫」が切り札として登場する。「小銭がない+そのままでいい」ことを丸ごと表現させようとなるのである。

「大丈夫」がこの先どこに向かうのかはわからない。「ら抜き」と同じくしかつめらしく批判する人たちもたくさんいると思う。しかしそれが言葉の持つ進化という摂理だとしたらそれにあがなう事は如何ともしがたいかもしれない。もちろん、大切なものは守り続けていく必要があるだろう。深い関心を持ちながら見守っていくことである。

大切なもの、で思い出したのだが、日本語のあいさつのもう一つ「さようなら」についてのこんな逸話を紹介して締めくくりたい。

世界初のニューヨーク・パリ間の無着陸飛行で有名なリンドバーグは奥方と日本を訪れている。その旅も同じく北太平洋横断飛行の途上のことであった。1931年というから満州事変のかなりきな臭いころである。その当時、日本人と初めて交流した時の印象を夫人のアンが手記につづっているのだが、そこにこんな内容が書かれている。

『日本人は別れのあいさつに「さようなら(左様なら)」といいます。その意味は「本当はお引止めしたいところではありますが、そのような事情があるのなら仕方がありません」ということです。私は別れの場面でこのような細やかな哀惜の念を表現する人々を見たことがありません』

 

まるちゃんとおでん屋

そのニュースを聞いたとき、仕事で静岡県の清水を訪れたときのことを思い出した。清水は次郎長で有名な港町だが、てっきり清水市というのだとばかり思っていたのだが静岡市に合併されてその一部の清水区になっていた。JR清水駅の改札を抜けるとすぐそこにこんな看板がある。

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そう、昭和時代の清水市といえば、まる子の住んでいた町なのである。郊外にはちびまる子ちゃんランドなるテーマパークもあるらしい。いつか行ってみたいと思っていた。

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静岡名物といえば「おでん」であると勧められ、とあるおでん屋に入った。店先で大きな鍋でおでんを煮ていた。もれなく串がついているのが特徴である。

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有名な店らしいのだが店の名前を憶えていない。

 

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そういえば、ちびまる子ちゃんも父ヒロシと二人でおでん屋にいくエピソードがあった。たしかヒロシの小学校時代の同級生がやっているおでん屋である。

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やはり清水といえば次郎長である。

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まる子は卵、ちくわ、はんぺん。ヒロシはがんも、大根、すじを注文。でも絵をみるとすじではなくちくわぶのようだ。

ヒロシ曰く。「生まれは清水だってねぇ。おでんくいねぇ、酒のみねぇ。」

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そういえば、私の入ったおでん屋の全体の造りは、小学校の教室と廊下をイメージしていたような気がする。こんな感じである。

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そのニュースを聞いたとき「清水市」が「清水区」に一瞬で変貌したような錯覚を覚えるとともに、もうあの町に行ってもまる子たちに会うことはできない、たった今、それは永遠に封印されたのだと実感した。そして昭和もまた一つ遠くなる日も刻一刻と近づいている。

心よりご冥福をお祈りいたします。

なつやすみのえにっき

おきるとおかあさんから、あさのすずしいうちにしゅくだいをやるようにいわれました。えにっきをかこうとおもいましたが、一日がはじまったばかりでかくことがありません。しかたがないのでおとうさんのほんだなのいちばん上で手がとどかないところをみてたら、ぬりえというなまえのほんがありました。だいをつかってそれをとって、なかをみるとえがたくさんならんでいました。それでぼくはぬりえをすることにしました。いちばんすきなえをえらんでえのぐできれいにぬりました。

 

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できあがったのでおかあさんにみせるとおかあさんの目はさんかくになりました。よる、おかあさんとおとうさんはけんかしました。おわり。 

 

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