★Beat Angels

サル・パラダイスよ!誰もいないときは、窓から入れ。 レミ・ボンクール

下町横丁的リアリズム

通勤の日々が始まって気が滅入ることが多くなった僕は、ある日意を決して地下鉄を途中下車した。人形町、小さな居酒屋が立ち並ぶ甘酒横丁。安普請の低い軒の店がこれでもかというほど立ち並ぶ。通りでは肩を組んだ学生たちとすれ違う。開け放たれた店の入り口からは野球のテレビ中継と歓声が上がっている。僕は「やきとりや」がかろうじて読み取れる店の暖簾をくぐった。

 


将棋盤を持った浴衣姿の二人が今日の勝負の反省会をしている。ベレー帽をかぶったお爺さんが身ぶり手ぶりで若者二人にうんちくを語り二人は神妙な顔つきで聞いている。戦後間もなくの国体で陸上選手だった人がテレビをみながらかつての武勇伝を語っている。店のおばさんは忙しそうに手を動かしながらもそれにやさしくこたえている。片隅にはコップ酒をあおりながら店内の騒がしさに顔をそむける人がいる。

見知らぬ人たちの見知らぬ会話がとても温かく胸に響く夜だ。同じ場所に集う人たちの顔が一人ひとりなぜかよく見える。僕はそこで様々な人生を見つける。居酒屋の人いきれは人生の人いきれだ。暖かいのに少しだけ寂しいひといきれだ。そして居酒屋を取り巻くあらゆる感傷のもとにあるのはきっと郷愁である。僕たちは故郷を離れ遠く船出している。何が待つともしれぬ荒波の果てに。希望に燃えて家を出た時の靴の底は絶望の歯で削り落とされ、凍える魂は癒されることもなく荒波を漂いつづける。そして、ふと立ち寄った港町のはずれの居酒屋で遠い故郷を思うのだ。

江戸の頃、下戸というのは最大の野暮であった。だから酒の飲めない人も無理に酔ったふりをしたそうだ。そんな強がりの気風は今でもこの界隈に残っている気がする。この若者二人と語る近所の左官屋らしいお爺さんも、野暮な仕事の話はしないようにしているけれど、時折仕事中の厳しい顔が時々横切ってしまうのがわかる。元来、世間には用事という下世話な話がひしめいていてその一つ一つに多くの人間が集まっている。その用事の周りに集う人間の集団が本質的でありえないのは用事なんてものが本来的でないからだ。僕たちの暮らす社会なんて貧弱だ。社会というものの観念的な部分を除去したら残るのは普段身の回りにいる一握りの人たちとそれをかろうじてつなぎ止めている用事だけである。

この居酒屋に集う人間たちには用事がない。気が遠くなるくらい偶然に出会った人たちである。だからこそ彼らの言葉は真実でありそれがゆえに優しくそして厳しいのだ。さて、ここに書いていることはおそらく料簡が狭い、世界を見ていない、小市民的である。そんなことは百も承知だ。僕にとって世界に目を向けるよりも今日、そして明日を元気で生きることの方がはるかに大事だからである。