★Beat Angels

サル・パラダイスよ!誰もいないときは、窓から入れ。 レミ・ボンクール

草枕雑感

高台にあるその寺から霊園へと続く参道を下りながら、こう考えた。

近しい人の死は感傷的にしか語れない。第三者の死は生物学的にしか語れない。そして自分の死に至っては観念的にしか語れない。とかくに死というものはつきあいにくい。

 

その霊園には両親と弟の3人が眠っている。少し前に両親が相次いで亡くなりこの霊園に墓を建てた。それを一緒に協力して建てて、墓誌に両親の名前を刻んだ当の弟も最近急に亡くなり同じ墓に入った。墓誌には当然、弟の名前もその横に刻むのは当たり前とわかっていたのだが気が進まないまま一周忌を迎えた。

以前、墓誌に並ぶ両親の名前を生前の弟と一緒に眺めたことがある。秋の暮れで吹き抜ける風が冷たい時分だった。その時弟は、いつか俺たちもここに並ぶんだな、とつぶやいた。そこはある意味で自分の名を記す最後の場所だ。冷たく置き場所、といってもいいだろう。そこに名前が置かれた時点からその人のすべての時間と空間が凍結される。過去を振り返る事しか許されない氷でできた鏡の壁がそこに置かれるようなものだ。しかし、弟を納骨したときに弟の名前をそこに刻むことにためらいを感じたのは彼の一生がその時点で凍結されるのを拒むという感傷めいたことだけではなかった。彼の死は急な出来事だったので、マンションの売却、相続、他煩雑な手続きの山に呆然としていたこともある。それよりも私を立ち止まらせたのは墓誌を前に弟の名前がそこに刻まれると、その隣に自分の場所が予約の形で確定してしまうことだった。

一周忌を迎えるにあたり弟の名を刻むことを決心して知り合いの石材店の店長に電話した。店長には数年前には墓の建立をお願いした。その際に同じ幼稚園に通った私の後輩であることが分かって、温泉町のはずれにある居酒屋で酒を酌み交わしたことがあった。私を先輩と呼んでくれる気さくな人だった。彼は、
「去年から気になっていたんですよ。でもこっちから急かすのもなんだから黙って待ってました。位牌の写真を送ってくれれば1週間でやりますよ。」
と言ってくれた。

しばらくして刻印が終わったという連絡を受け、再び霊園に赴いた。また同じく秋の暮れのことだった。石材店の店長は副業でやっている果樹園に行く途中らしくトラックに乗って現れた。私は店長と二人で並んで墓誌に向かい刻印の内容を確かめて礼を告げた。私は家族全員の名前が並ぶ墓誌を眺めて、自分の居場所をしっかりと目に焼き付けた。隣で店長は「先輩、寂しくなっちまいましたね。」とぽつりとつぶやいた。ちょうどその時、寺から時を告げる鐘が鳴った。

都内に戻ってからのとある日、私はまだ手続きが進行中だった弟のマンションに行って遺品の整理に一日を費やした。弟の住んでいたマンションは私鉄の沿線駅にある閑静な住宅街にある。遺品整理は目に触れる一品一品に生前の生き様をほうふつとさせ、様々な思いが去来してかなり精神的に疲れるものだった。夕暮れ時になるとそれもひと段落したので、家に帰ろうととぼとぼと駅に向かって歩いている時のことである。マンションが立ち並ぶ住宅街の中に不似合いな洒落た喫茶店がぽつんとあった。実はここを訪れる度に気になっていた。その日はなぜか急に寄ってみようという気持ちになった。

 

早速その店に入ると、そこは世界中のコーヒーが選べる店だった。私はエルサルバドルのコーヒーを注文した。煎れ方も本格的で、当然味も絶妙で、その日の疲れが癒えてやや刺々しかった気分も少し落ち着いた。そうして、弟も朝夕の通勤ではこの店の前を毎日通っていたはずなので、彼も立ち寄ったりすることはあったんだろうか、とふと考えた。

 

店の外も暗くなってきたので帰ることにして会計の前に立った。会計を済ませたあと、マスターは私の顔をみて言った。
「なんだか久しぶりですね。しばらくいらっしゃらなかったので。どこか遠くへ出張でも行かれてましたか?」
そう私と弟は瓜二つとは言わないまでもよく風貌が似ているといわれていた。その瞬間、私の胸には熱いものがこみ上げ、ここ一年間忙殺されてきたことや、抱えていた心のもやもやも吹き飛んだような気がした。そしてこう答えた。
「ええ、ここ一年ほどいろいろとありましてね。やっぱりここのコーヒーは最高です。またこれからも寄らせてもらいます」

それ以来、出張の折など、かなり遠回りとはなるがこの喫茶店に時々寄っている。その喫茶店にはまだ弟がいて、時々コーヒーを飲んだり、マスターと話したりしている、そう考えてみるのも悪くない。