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サル・パラダイスよ!誰もいないときは、窓から入れ。 レミ・ボンクール

セルンの憂鬱

スイスの素粒子物理学者であるセルンは憂鬱な日々を過ごしていた。

セルンは素粒子物理学の発展にかかせない電子と陽電子の粒子加速器の建設を提案した。提案が採用され完成したのは1989年のことだった。そこからすでに10年が経過していたのだが目立った成果はまだ出せていない。最近では若い科学者たちの関心は重力を作り出す粒子の方に移っていて新たな粒子加速器を提案する動きも出始めている。セルンとそのチームはそんな焦りの中にいた。

セルンたちが抱えている問題は粒子加速器を加速するために必要な磁界の制御がうまくいっていないことだった。正体不明のノイズにより粒子の加速が思うようにできない。セルンはデータを眺めてみた。 

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これらは年間を通した季節変動と一日の中の変動であり、それぞれ特徴がある。

ーこのノイズの正体がつかめてそれが対策できればいいのだが。

ちょうど季節は春で磁界ノイズが増加し始めていた。ノイズの影響で実験もうまくいかないのでセルンは気分を変えてみようと研究所を抜け出してレマン湖のほとりを散策していた。レマン湖は研究所から2km程度の距離にあるアルプスの膨大な水をたたえた美しい湖である。セルンは湖のほとりにあるベンチに座って湖水とその背景にあるアルプスの山々の稜線を眺めていた。山々の雪は解けかかり美しいモザイク模様を描き始めていた。レマン湖にもその雪解け水が流れ込んでいて湖面はいつになく高く、豊かな水をたたえていた。

セルンはそのとき磁界のノイズはデータが頭をよぎった。あのデータもちょうど3月下旬の今頃に急に増えてきてそれが夏まで続いている。セルンは叫んだ。

-そうか、あれは雪解け水だったのか!

セルンは思わず駆け出してレマン湖のほとりのコルナバン駅まで行き、電車にのって研究所へと急いで引き返した。研究室に走りこむとその仮説をみんなに披露した。誰かがレマン湖の湖面の高さの変化のデータを持ってきた。もう一人は湖の水量の変化を計算してそれから重力を導き出し、それをもとに加速器にかかる引力から形状の変動量を計算して言った。

-1mmです!

加速器レマン湖の湖水からの引力の影響を受けて変形するのである。その量は1mm程度ではあるが、粒子のレベルでみるとその影響は計り知れない大きさとなるのである。こうして磁界ノイズの謎の一つが解けた。

続いて一日の変動である。セルンは一日周期のゆったりした変動の原因はなんだろうと考えた。レマン湖の影響のアナロジーからセルンはすぐに気が付いた。セルンはカレンダーを取り出してそれとデータと比較してみて叫んだ。

-これは月だ!

セルンがみていたのは月齢カレンダーであった。一日周期の変動の要因は潮の満ち干だったのだ。スイスという国は内陸奥深くにあって勿論海は遠く離れている。しかし地球規模の潮の満ち干による海水の移動量はレマン湖よりもはるかに巨大だ。それを受けて重力が微小に変化し、加速器に微弱な影響を及ぼしているのだった。それまでスイスに住んでいて気にしたこともなかった海からの影響を目の当たりにして素粒子との戦いは地球規模のスケールとの戦いも含んでいることに物理学の奥深さを実感させられた。しかし、まだ謎は残っている。

残るは一日のデータで観測されるパルス状のノイズであるが、発生の時間帯をみると朝5時くらいから深夜まで続いている。セルンは一日の最初のパルスの時間を正確に記録して国営鉄道TGVに電話をかけた。そしてジュネーブ発パリ行きの始発電車の発車時刻を尋ね、その答えを聞くとにやりと笑った。そう、電車が研究所を通り過ぎる時刻とパルスの時刻は完全に一致していたのであった。このパルスノイズの原因は研究所の近くを通り過ぎる電車の影響だったのである。

こうしてすべての謎を解明したセルンとチームのメンバーは小躍りして喜んだ。

さて、セルンたちの次の仕事はこのノイズの対策である。レマン湖の湖水、そして地球規模の潮の満ち干、そして電車からの電磁波影響の除去である。それは苦難の道のりだった。そしてその道半ばで突然の悲劇が訪れた。今の加速器プロジェクトの中止と新たな加速器の建設が同時に発表されたのである。それは2000年のことであった。11年をかけたプロジェクトは華々しい成果を上げることなく終了を余儀なくされた。

セルンはプロジェクトの終了とともに研究所を去ることにした。研究所での最後の日、研究室に一人残って資料やデータを整理していた。加速器のデータは膨大にあったがほとんどノイズを測定したに過ぎなかった。セルンはそれを床に並べて眺めた。プロジェクトには膨大な費用をかけたが、結局の成果はレマン湖の湖水面の高さ、潮の満ち干、そして電車の時刻を測定しただけだった、それも誰にも負けないほど正確に、と苦笑いを浮かべた。潮の満ち干などこの山国スイスでなんの役に立つというんだろう、と思い至った瞬間、とある考えを思いついた。セルンはデータをカバンに詰め込むと研究所をあとにした。それを見かけたよるとその時のセルンは颯爽とその顔は希望に満ちていたという。

そしてその成果は2003年すぐに現れ、新聞をにぎわすことになった。

 

■ 2003/3/3 スイス新聞

海に接していない「大陸の島」スイス。アルプスの国スイスが「海洋戦争」で最後の勝利を収めた。2日、ニュージランドのハウラキ湾で行われた第31回アメリカズカップ(ア杯)ヨット大会決勝戦の第5戦。スイスの「アリンギ・チャレンジ」号は大会2年連続優勝に輝くニュージランドの「チーム・ニュージランド」号を45秒差で破り、見事優勝を勝ち取ったのである。スイスの大統領は「海のない山登りが伝統の国がヨット競技で勝つことができたというのは、スイスという国が人々を驚かすことができるという証拠だ」とコメントをした。勝因は?と尋ねられると「我々は潮の満ち引きを世界のだれよりも精密に知っているからだ」と答えた。

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*これは完全なフィクションである。