■はじめに
国土地理院は地勢調査のために日本全国を対象とした精細な航空写真を過去から多数保有しており、それを一般に公開している。高度成長期、全国的に宅地の造成が急ピッチで進められたが具体的にどのような計画・手法でそれが進められたかを探るための重要な資料である。とある町を例にとってその過程を探ってみる。
■1952年
戦後の高度成長期の始まる時期。まだほぼ全域が水田である。右斜め上の三角地帯に着目すると水田を保有する農家が小さく存在するだけで宅地化率は2%程度。
■1963年
農家のあった地区を中心に宅地化が進む。しかしまだ8%程度。
■1971年
■1975年
周辺部の宅地化がさらに進行し宅地化率は80%。
■1987年
宅地化がほぼ完了。
■1997年
ほぼ進展なし。
■2007年
団地建設当時から50年を経過し団地は高齢化が進んでいる。
■水田のあぜ道と宅地道路の関係
写真を眺めていて次のことに気がついた。これは団地建設当時の写真である。
水田と団地の境界線をよく見ると、団地の道路は水田のあぜ道があったのと同じ場所に設計されている。水田の大きさと住宅の大きさは普通関係ない。宅地は自由に設計してよさそうにも思えるがなぜわざわざ一致させるのだろうか。
それは用水路の維持が必要だったからである。あぜ道は歩くためだけのものではなく、そこに水田に水を回すための用水路が併設されている。団地を造成している間も残された水田では稲作を続けなければならなかった。そのためには工事中においても用水路のルートは確保しておく必要があったのである。
こうして宅地は自然に水田の形を踏襲する形で造成されていった。この地区の例でいうと下図のように水田14面と住宅42棟の対応関係が設計の基本ルールとして適用されたのである。
水田がほとなどなくなった現在では、この美しい新旧の共存ルール自体が意味をもたないものとなった。でも今この団地に住んでいる人たちもかつては水田だったときに農夫が歩いた同じあぜ道の上を歩いているのだ。このように普段は気がつかないような形で過去の記憶や生き様は新しい町の中に刻み込まれていくのだと思う。