★Beat Angels

サル・パラダイスよ!誰もいないときは、窓から入れ。 レミ・ボンクール

押絵と旅する娘

窓にもたれながら目を覚ますとその男を乗せた電車は音も立てずに夜の底を走っているところだった。男の斜め前の席には一人の娘が座っていて男を見ている。男は中腰になって電車の中を見渡してみたが電車の中には娘と自分の二人しか乗客はいなさそうだった。

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電車は町から遠くを走っているらしく窓の外には街頭が時折思い出したように点々と続いているだけだった。男はその時点で自分が降りるはずの駅を乗り過ごしたことに気がついた。ふと少女の隣にある目の前の席を見てみると古めかしい藍色の風呂敷に包まれた額縁のような形のものが立てかけられている。

-これですか?

娘は男が目が覚めるのを待っていたかのように顎で風呂敷包みを指し示してたずねてきた。男は我に帰ると少し寒気を覚えて、半袖のシャツから出た両腕を交互にさすった。それを見ていた娘は言った。

-ちょっと冷えてきましたね。今朝、家を出るときに庭先のザクロの実がぱっくりと割れているのを見ましたからもう夏は終わりです。ところで、やっぱりこれですよね?

娘はいたずらっぽい目をしてまた顎をしゃくってまた風呂敷包みを指し示した。男は答えなかったが、その少女の愛らしいえくぼと、いたって現代風のその少女と風呂敷包みの対比に抱いた好奇心も手伝ってだまってうなずいた。

娘は風呂敷を開くと額縁の絵がでてきた。それは布地をつかって縫いこむ押絵であった。広々とした歌舞伎の舞台のようで格子の天井が遥か遠くまで続いている。中央には黒い洋服姿の老人が座っている。17,8歳の着物をきた美しい少女がうれしそうだが少し恥ずかしそうな顔でその老人のひざにしなだれかかっている。老人は気難しそうな顔をしているが片手は少女の肩をやさしく抱いている。

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-この絵のこの男の人は私のひいおじいさんのお兄さんです。もう100年以上も前にこの絵の中に入り込んでしまってそれ以来ずっとこの絵の中に住んでいると聞いています。時々、退屈するだろうと思って今日も浅草の凌雲閣があった場所までつれていってあげんたんです。昔は12階という名前でひいおじいさんもそれが好きで何度も登ったそうです。それからこれも今でも残っています。

娘は白いバッグを開けると中から双眼鏡を取り出した。それは旧式の双眼鏡でとこどどころで金属が剥げ落ちていた。風変わりな形をしていて、どちらから覗いたらいいのかもわかりにくかった。娘はそれを男に手渡しながら言った。

-プリズム双眼鏡です。ひいおじいさんはこれでこの絵をみたらしいのです。ちょっと距離をおいてこの絵を見てみてください。

男はボックスを出て電車の反対側に移動した。娘は見やすいように絵を男の方に向けた。男が双眼鏡で絵をみようとすると、娘はあっと小さい悲鳴のような声を上げた。

-いけません。それは逆さです。逆さに覗いてはいけません。

男は双眼鏡を持ちかえて絵を見た。焦点があった瞬間、こんどは男の方があっと声をだした。単に青白いだけに見えた少女の頬はやや桃色がかって上気してまるで生きているのかと思えるほどだった。幼い顔には似つかわしくない大きな胸と腰のあたりから脚にかけての完璧ともいえる曲線のなまめかしさがあった。そして、逆に老人の顔には数百本の深いしわがあり、まるで拷問のような苦悶の表情をしていた。そしてさきほど肉眼で見たときは気がつかなかったがその歌舞伎の舞台のようなことろには他にも数限りない人たちがいた。恰幅のいい会社の社長と思しき人、買い物籠を抱えた主婦、飛行機のおもちゃを持った兄と妹など時代はまちまちで、ここ100年間に生きていた人たちを図鑑として収めたような様相であった。

男はこの世界が絵ではなく現実であると確信した。そして頭がくらくらして立っていられず、元の席に戻った。双眼鏡を娘に渡しながら言った。

-この絵のことを作品にした作家はその当時書けなくなって旅をしていたらしい。その旅の後で沢山名作を残したんだ。だから僕は彼は本当にこの押絵を持った老人に出会ったんだと信じている。実は僕も物書きを目指しているんだけど最近調子が出なくてね。今晩はそれで憂さ晴らしにちょっと深酒したら電車を寝過ごしたってわけさ。

娘は黙って聞いていたがまっすぐ遠くをみて、夢見るように話しはじめた。


-きっと物語りは・・・あなたの体から出て誰かに読まれたがっていますよ。この絵のことを書いた作家さんだってその作品は本の中では永遠になってあなたのような誰かに読まれることで新しい生を受けたように。

男はかねてから考えあぐねていたことを言い当てられたような気がした。そして何かが書けるような気がしてきた。すると、娘は男に向き直って言った。

-あなたの中から物語を本の中に出してあげてください。そうだ。ひとついい提案があります。知っていますか?物語は本の中だけでなく絵の中でも永遠になれるんですよ。

娘は手に抱えていた双眼鏡を逆さにして男をみた。男はぎくりとして双眼鏡のレンズに目をやった瞬間、世界全体が急に暗転してぐるぐると回り始め、そのまま吸い込まれていくのを感じた。最後の瞬間、押絵に描かれた人物たちがいっせいに自分に向かって微笑んだ気がした。そして一番前で満面の笑みをうかべた少女の顔の中にどこかで見覚えのあるえくぼが花を咲かせるのを見た。

 

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やがて娘は誰もいなくなった電車の中でほっとため息をつくと、押絵を風呂敷で丁寧に包みながら言った。

-そうですよね。本だって絵だって誰にも出会わなければ永遠というのはちょっと退屈すぎますよね。

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