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サル・パラダイスよ!誰もいないときは、窓から入れ。 レミ・ボンクール

『惑星ソラリス』(擬態の一様式として)

 以前、最新刊の『ソラリス』を紹介したが、ソラリスの海の不思議な性質は擬態の一様式であると理解することができる。擬態といって思い出されるのは、星野之宣の『植民地』という短編作品に登場する奇怪な擬態生物の話である。

 

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 『植民地』に登場する擬態生物は彼らが一番強いと思われるものに姿を変える能力を持っている。目的はあくまで自己防衛であり、あくまで外見だけの擬態である。当初はギーガーと呼ばれるただ大きいだけの愚鈍な生物に擬態していた彼らだったが、惑星を征服しようとして派遣された人間たちがギーガーの殲滅を進めるのを見て、人間がもっとも強いものと理解して彼らは人間への擬態を開始していく。それも人間のリーダの姿に擬態する。それがゆえに人間たちは精神錯乱・疑心暗鬼を起こし自滅していくというストーリーである。われわれ人類と未知の生物との出会いのひとつのを示唆している。彼らは人間を攻撃するわけでも敵対視しているわけでもない。ただ擬態という様式がそれに触れたことのない人間たちを大きな混乱の中に追い詰めていくのだ。

 そして『惑星ソラリス』では未知の知性との出会いとして別な形の擬態を提示している。ソラリスの海は人間の頭脳をスキャンし、そこでもっとも支配的な意識を理解し、それを実体化、つまり擬態する。死別した妻だったり、子供だったり。はたまた実直そうな博士に対してのそれは、なぜか奔放な黒人女性だったりする。

 愛する人と死別した時、記憶の中で愛する人の成長はその時点で停止する。だから別れた時の年恰好で現れることになる。 

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 そして登場した彼らの発言、表情、行動様式は結果的に作り出した人の記憶、認識の範囲の中である。従って本物とは違うであろう。ではその違いとはどこが、どう違うのか?

 一例を示そう。その人の着ていた服の色やデザインはなんとなく覚えている。でも、細かいところの構造は知らないし、覚えていない。服を脱がそうと背中の紐を解けばいい、とは気が付くのだが、 

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 ご覧のとおり、紐を解いても脱がすことはできない構造であることに気が付く。それもそのはず、実態はあって似てはいるものの、結果的に自分の中の記憶・意識以上のことは実体化されないのである。

 ここで我々はふと基本的な問題に立ち返ることになる。

 我々は果たして愛する人・物の何をどこまで認識できているのだろうか。

 ソラリスの主人公は亡き妻の幻影に別れを告げ、遠く地球の故郷の美しい田園風景に思いをはせる。そこには年老いた父が自分の帰りを待っている。

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 思いを馳せるのみならばよかったのだが、それを見たソラリスの海はあろうことか。。。

 

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 ソラリスの擬態の目的は自己防衛のためなのか、親交の意味なのか、我々の想像を超えた何かなのか、は結局最後まで語られない。新しい知性との出会いの一形態を提示したに過ぎない、とレムは語るのみである。

 さて、余談となるが、映画に出てくるソラリスへの出発前に車で町を走り抜けるシーン、これは実は70年代の東京首都高の映像である。

 

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