ある冬の寒い夜のことだった。
東京の都心から遠く離れた町で一人の男が道に立ってタクシーを探していた。すでに午前2時を回っていた時分だったのでこの郊外の町では人通りはとっくに途絶え、タクシーはおろか通り過ぎる車さえもまばらだった。タクシーを探している間に男の体は芯まで冷え切っていた。
やがて一台のタクシーが道の向こうから来るのが見えた。空車なのを確認して男は大きく手を上げた。タクシーが横に停車すると男は大急ぎで後部座席に乗り込んだ。
-綾瀬まで行ってくれ。
男はそれだけ告げた。タクシーの運転手は、
-はい。
とだけ答えると夜の町中をタクシーは滑り出すように走りだした。すでに通りの街灯は消えていて、タクシーの窓から人家の玄関の明かりがはぽつりぽつりと見えるだけだった。後部座席に座った男はコートの襟を立てて小さく身震いした。
-ちょっと寒いな。もう少し暖かくしてくれ。
-はい。
やがて二人を乗せた車は山道に入っていった。男は運転手に向かって聞いた。
-どこに向かっている?
-綾瀬ですけど。
運転手は答えた。
-綾瀬という地名は、この辺りだと東京の下町と神奈川県の両方にある。普通はどちらかの綾瀬か聞くもんだがどうして聞かないんだ?
-行き先は乗ったお客さんが言うものだと思います。こちらがとやかく言う問題ではないと思いますが。
-行き先を知らないのにどうして走り始めてるんだ?
-走るのが私の仕事だからです。止まっていたらお客さんにも失礼ではないですか。
男は黙って座って目を閉じた。車はしばらく急カーブの続く山道を走っていたが、やがて車が下り坂に差し掛かった。すると運転手がまるで独り言をいうように語り始めた。
-そういえばこんなことがありました。私の女房は結婚したころから「越前に行ってみたい」というのが口癖でした。でも私は仕事が忙しくてなかなか休みが取れなかったんです。そしてやっとまとまった休みがとれたので女房と二人で出かけました。運悪くちょうど今頃の時節で越前は大雪の日でした。私たちは駅から降りてまっすぐに岬に向かいました。岬のあたりはさらに猛吹雪でした。私たちは吹き付ける雪の中を身を寄せ合うようにして岬の突端まで険しい道を歩いていきました。もちろん、私たち以外は誰もいません。そしてやっと岬のはずれまで来ましたが大雪で薄暗く何も見えません。崖の下に大波が岩に打ち寄せて砕け散っているのだけが見えました。
客の男は目をつぶっていて眠っているのか何も話さなかった。運転手は続けた。
-そこで女房に、なぜこんなところに来たかったんだ?と尋ねました。すると女房は「私はここに来たいなんて言ってませんよ」と言うんです。私は思わず耳を疑いました。女房が言うには「私は越前の町に行きたいといっただけです。この岬に連れてきたのはあなたですよ」
運転手はさらに続けた。
-私はそれまで越前に行ったことはありませんでした。女房が「越前に行きたい」というのを何十回となく聞いてきましたがそのたびに私の頭の中に浮かんだのは越前岬だったのです。それでてっきり女房はその岬に行きたがっていると長い間、思い続けていたわけです。
後部座席の男は何も言わなかった。
-行き先なんてそんなもんかな、と思いました。あれ?お客さん眠ってしまいましたかね。
-いや、起きている。
男はごそごそと居ずまいただして運転手に聞いた。
-奥さんは今どうしている?
運転手は答えていった。
-5年前に病気で亡くなりました。亡くなる直前、私は「きっとすぐにお前のそばにいくから」といいました。すると女房は「あなたのことだからきっとまた行き先を間違えると思いますけど」と笑って言ってくれました。
-そうだったのか。
-私はそれを聞いて考え直しました。あの世に行ったとしても訪れた行き先でまた偶然に女房に再会できればいいんだと思ったんです。だから約束なんてする必要はないんだ、と。そもそもこの世で女房と出会ったのだって偶然の出来事だからです。
それからしばらく沈黙が続いた。男は黙って窓の外を見ていた。
空の色は少しずつ群青色に変わり、東の空の端にはかすかだが淡い朱色も見え始めていた。運転手は言った。
-お客さん、もうすぐ綾瀬につきますよ。
男はそれに答えて言った。
-ありがとう。綾瀬についたら適当な場所でおろしてくれ。熱いコーヒーが飲みたい気分だ。