★Beat Angels

そんなことはどうでもいい、道路こそが人生だ

雨のブックセンター

六本木の街をあてもなく歩いていると不意に雨が降り始めた。

通り過ぎる人たちは立ち止まってカバンから傘を取り出している。僕はあいにく天気予報をみてこなかったので傘は持ち合わせていない。目の前にあるビルに「BOOK」の文字があるのを見つけてこれ幸いと急いでその書店に飛び込んだ。

書店の入り口の大きなガラス越しに舗道を通り過ぎる人たちを眺めていた。すると急にこの風景はどこかで見た覚えがある、という懐かしさを感じた。僕はゆっくりと店内を振り返ってみるとそこには2階につながる長い階段が見えた。店に入ったときは気がつかなかったのだがこの瞬間に理解して、今度は色鮮やかな思い出がよみがえった。そうか、ここだったのか。

-じゃあ、ABCで。

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当時、彼女と僕の待ち合わせの合言葉だった。その書店は都内でも珍しく美術系の本や画集が豊富で、彼女に言わせると美大生の聖地ということであった。たいてい彼女は待ち合わせの時間よりはるか前に来ていて、僕が到着するころにはいつも2階の美術書のコーナーにある椅子に座って静かに画集に目を通しているのだった。この書店は当時朝5時まで深夜営業していたはずだった。彼女と二人で終電に乗り損ねて朝の始発電車までここで時間をつぶしたことがある。美大生だった彼女はそんなときも、一人静かに画集を手にして飽くことなく眺めているのだった。

僕は2階にのぼる階段の前でそんな思い出に浸っていると階段の上から降りてこようとしている小柄な女性の姿が見えた。驚いたことにそれは紛れもなくその彼女であった。当時はまだ学生で少女の面影を残していた彼女もすっかり大人の女性であった。その瞬間に自分が彼女に二度と会いたくない一心でこの書店に二度と訪れまいと決意していたことを思い出した。そんな決意があったことすらすっかり忘れてしまうほどに時間は流れていた。

彼女は大きなスーツケースを持っていたがそれを軽々と持ち上げて長い階段を急いで降りてきた。階段を下りきるとスーツケースを床において顔を上げたときに彼女は僕に気がついてはっとした。彼女は僕と距離をおいてまっすぐに向き合った。僕はそのとき感じた懐かしさというのは奇妙なことに彼女の顔を見下ろすその角度だった。ひょっとしたら僕はいつでも彼女とこれくらいの距離をおいて向かいあっていたのかもしれない、とふと思った。

-今から空港に向かってローマに行くの。どうしても持っていきたい画集があったから。

彼女はそう説明すると腕時計をみた。焦っている様子だった。書店の出口に近づくと手にしていた赤い傘を広げながら言った。

-ひとつ当ててみましょうか。きっと傘を持っていないんでしょ。天気予報ちゃんと見ないもんね。天気予報だけじゃないか。

それが彼女の本当の最後の言葉になった。彼女は笑みを浮かべたまま傘を持った手を動かして小さく振るしぐさをしたかと思うとスーツケースを引きながら店を出て、地下鉄の駅に向かう傘の列の中に紛れ込んでていった。

僕はまだ店内にいてそれをガラス越しに見送った。そして当時彼女が言っていたことを思い出していた。

―この世界には私たちが理解できない仕掛けが潜んでいるの。

彼女は言っていた。
私たちは普段、脈絡もない出来事の流れの中で翻弄されているように思える。でもそれらには本当はひとつひとつにきちんとした意味がある。学ぶべき時にはそれを教えてくれる人が現れる。出会うべき人には出会う時にちゃんと出会っている。別れるべき人とは別れるべきときにちゃんと別れることになる。それはその時には何のことなのかは分からない。でもそれは時間が経過するにしたがってその意味が少しずつ明らかになっていくのだ、と。

彼女が去ったあとも僕はしばらくその書店にいた。そろそろあきらめて店を出ようとすると、雨はすでに止んでいた。ほんの10分ほどのつかのまの雨が繋ぎ止めた一瞬といってもいいような出来事であった。

―仕掛け、か。

今日、彼女と偶然であったこともその仕掛けの一つなのか。そもそも、あの時、彼女と出会ったことから始まり、それから続く今なら顔を手で覆いたくなるような情けない思い出とその果ての顛末、それらがすべてこの世に存在するという仕掛けなるもののなせる業だったのであろうか。

僕は地下鉄の駅とは反対の方向に歩き始めた。渋谷まで歩いてみよう、と意味もなく。

 

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