★Beat Angels

君がすべきことはただ一つ、ニューヨークへ行くことだ -ジャック・ケルアック

朝のコージ君

 横須賀線沿線に住むコージ君の朝は満員の通勤電車で始まる。始発駅の隣の駅から電車に乗り込むのでたいていは席に座ることができる。コージ君の勤める会社は横浜駅の次の新川崎駅にあった。座る席は降りる駅のエスカレータの近くの扉のすぐ横と決めていた。新川崎までの約50分の通勤時間の中でコージ君は座りながらスマホで音楽を聴くことにしている。お好みは70年代の古い歌謡曲、しかも当時のアイドル歌手の曲であった。

 

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 その日もいつものように通勤電車の中、座りながらアグネス・チャンの「草原の輝き」を聴いていた。横須賀線横浜駅に停車すると大勢の通勤客が乗りこんできて車内は混雑する。コージ君の席の前にも若い女性がつり革につかまって立っていた。コージ君はその女性の顔をかすめ見た。長い髪の若い女性である。どこかアグネスにも似ているような気がした。

 その翌日もアグネスはコージ君の前に立った。その翌日も同じだった。その日はちょっとだけ彼女と視線が合った。アグネスはあまり表情は変えなかったがコージ君には少しだけ微笑みかけてくれたような気がした。

 その翌日、コージ君は電車に乗り込む前からアグネスのことを考えていた。そしてちょっと試してみようと思い立ち、いつもと違う反対側の席に座ってみることにした。横浜駅から乗り込んできたアグネスはやはりコージ君を目ざとく見つけたのか彼の席の前のつり革を手にとったのである。コージ君は少し有頂天になった。横浜から新川崎まで一区間、時間にしたら10分足らずしかないのに自分を見つけて近くにいようとするのである。これは相当に脈があるに違いないと考えた。

 そしてそんなことが幾日も続くうちに季節は春から夏にかわった。アグネスもすでに夏服に着替え、ブラウスの裾から白い腕をのぞかせていた。その日、コージ君はある決意を秘めて電車に乗り込んだ。横浜から乗り込んで彼の前に立ったアグネスに向かって勇気を出して声をかけてみたのである。

 -あの・・・・

 するとアグネスの表情は瞬間的にこわばり、明らかに怪訝そうな顔をした。そしてあえて混みあっている車内を隣の車両へと移動していったのである。コージ君は呆然とそれを見送るだけだった。翌日から彼女はのる電車を変えたのか、コージ君はアグネスを見かけることはなくなった。

 季節は秋に変わり、帰宅の電車が夕焼け色に包まれる頃になった。コージ君は通勤電車の中でそれを見ながら時々懐かしくアグネスのことを思い出すのであった。

 

 そう、アグネスにとってコージ君はあくまで目印に過ぎなかったのである。アグネスが目をつけていたのはコージ君本人ではなく、コージ君が新川崎駅で電車を降りた後に現れる空いた座席の方であったのだ。

 

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