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サル・パラダイスよ!誰もいないときは、窓から入れ。 レミ・ボンクール

峠駅スイッチバック遺構

 奥羽本線板谷駅から歩いて1時間半、目的地である峠駅までやってきた。


■JR峠駅(新ホーム)

 

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 駅を探して細長い三角屋根の建物に近づいてみると、

 

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 峠駅の看板と入り口らしきものが見えた。養鶏場とおぼしきこの建物がまさしく駅舎なのであった。

 

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 中は真っ暗で何も見えない。中に入って見ると、

 

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 まるでヨーロッパの駅を思わせるような空間が広がっていた。ちなみにこの駅は山形新幹線の通過駅でもある。まさにこの線路を下りの新幹線が通過していく。正面のトンネルから新幹線が顔を出したと思った瞬間、同時に私ははじき飛ばされていることだろう。当然のことだが、そうならないようにここには踏切と警報器が設置されている。この駅に停車する各駅停車が3時間に1本というペースなのに対して新幹線は20~30分に1本なので結構気ぜわしい。

 

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 この駅舎の中の明るさは電気を使った照明によるものではない。屋根に施した採光の工夫による自然の照明による。この写真のように屋根には半透明の帯の部分が等間隔で並んでいてそこから散乱する光がこの駅舎の不思議な雰囲気を作り出している。

 

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 現在の峠駅の全景。右下のシマヘビのようなところが現在の峠駅のホームである。シマヘビの白い縞が採光のための屋根の半透明帯である。

 さてこの駅全景の写真からも明らかなように峠駅は複雑な形をしている。これがかつてのスイッチバックの名残なのである。左上に向かって二股に分岐しているのが特徴である。

 峠駅のホームからこの分岐部を見てみると、

 

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 これは下り方向を見ていることになる。右側が本線であり米沢に向かっている。そして左側が行き止まりの分岐線である。スイッチバックは1990年に廃止されたのですでに左方向に分岐する線路は撤去されている。写真ではわかりにくいが、右側の本線は駅に向かって傾斜を上ってきているのに対して左側の分岐線は水平になっている。この本線、分岐線の傾斜の違いがスイッチバックの大きな鍵を握っている。

 まずはスイッチバックの原理から説明する。

 

スイッチバックの原理

 スイッチバックの原理を説明する看板が峠駅にあった。

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 ・・・さっぱりわからないのであらためて解説図を作成した。

 

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 米沢から福島に向かう本線は①から④に抜ける必要がある。ところが傾斜が厳しいために列車は通り抜けることができない。そのため一度水平方向の②に停車しそこから引き返して同じく水平の③に向かって停車する。③から再出発した列車は水平であることを利用して加速したのちに④に乗り入れるのである。昔はこの水平な場所である③の場所に駅のホームがあった。スイッチバックはかつての重厚な蒸気機関車の馬力不足を補って急な傾斜を上っていく巧妙な技術であった。米沢から福島までこのスイッチバックは連続する4駅で採用されていてこの4駅の総合力で県境の厳しい峠を乗り越えていたのである。奥羽本線の開通は明治時代だったから、この技術はその頃すでに確立されていたことになる。 

 乗客から見ているとそれまで走ってきた汽車がいったん停止し、引き返していく。すると後方から駅のホームが現れるということになる。それは子供心にもまるで手品のような不思議な感覚であった。

 さてこの原理に基づくと、②の待機場所があったはずである。まだ残っているだろうか。ホームを福島側の端に向かって歩いて行った。すると、

 

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 左側になにやらトンネルらしきものが見えてきた。ホームの端までいってみると、

 

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 ②の待機部分の線路はすでに撤去されているがトンネルだけが遺構として残っていた。そう言われて記憶をたどってみると、確かにとある駅では折り返し地点が暗いトンネルの中だったことを思い出した。それがまさしくこの峠駅であった訳である。

 引き続いて③の峠駅の旧ホームを探索することにした。

 

■JR峠駅(旧ホーム)

 新ホームから分岐線にそって歩いて行くとまずは屋根付きの建屋がある。

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 すでに線路はないが建物だけは残っていて、現在は駐車場として利用されている。この建物は同じく三角屋根であり、これは実は雪のシェルターだったのである。屋根の部分を見上げると、

 

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 雪崩でも大丈夫なように頑丈な作りをしている。

 

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 これがシェルターの全景である。シェルターから外に出て前を見てみると、

 

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 何もない。さて旧ホームはどこなのか。下調べして見つけた写真はこれである。

 

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 この写真だけを頼りに道を進んでいった。すると、電柱に赤いペンキで「立入禁止」と書かれている場所まで来た。そこから先は誰も入ったことがないように荒れ果てている。立入禁止は見なかったことにしてさらに進んでいった。そこにはむき出しの有刺鉄線などが地面に放置されていて確かに危険である。やがて、

 

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 なにやら建物が見えてきた。そして足下を見てみると段差がありこれは荒れ果てているが、かつてのホームなのでないか?と気がついた。

 

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 これはまさしく駅舎の屋根を支えていた支柱の礎石であろう。建物に向かってさら進んだ。

 

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 とうとう目的地にたどり着いた。かろうじて線路も埋もれているが確かに残っている。

 

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 屋根を含めて木造部分は完全に崩壊して鉄骨だけが残っている。しかしそれも今にも倒壊しそうである。厳しい風雪の中での20年を越える歳月の流れの厳しさを実感した。

 

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 もう一方のホームの遺構。こちらに待合室があったという記録が残っているが無残な姿である。これがかつては急な上り坂を登るきるために力をためて加速するための重要な出発地点だったのである。私は寂しい気持ちで旧ホームを後にした。

 

■峠の茶屋と力餅

 さて、ここまで来たのでやはり力餅である。

 

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 峠の茶屋。明治時代、奥羽鉄道の開通に向けた工事者たちに疲れを癒やすために振る舞った頃から営業している老舗である。

 

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 これが力餅。

 

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 きめ細やかでまろやかな餅と甘さを抑えた少なめのこし餡、コーヒーにもよくあった。こうして、すこし沈んだ旅心も少しは慰められたのち、この思い出深い峠駅を後にしたのであった。

 峠駅から福島駅に向かう各駅停車に乗車した。運転士も車掌も若い女性であった。もちろんスイッチバックはもうない。かつての列車とは比べようもないくらい若くスマートな電車は苦もない顔をして軽々と峠を越えていった。

 

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