ボブ・ディランが2016年のノーベル文学賞を受賞して話題となっている。あまり知られていないがこれまでも候補として名前は上がっていたらしい。
同じアメリカの詩人であるT・S・エリオット('88~'65)は、1922年に『荒地』という長編詩を発表し、戦争前後を通じてのアメリカ詩壇のリーダであった。そして1948年にやはりノーベル文学賞を受賞している。エリオットの詩は物語性を排除し、神話や古典文学を断片的に引用するもので、発表当時こそその手法は前衛的と評されていたが、戦争を経た頃になると、破壊よりもむしろ秩序、知的・緻密さが前面に出るものとみられるようになった。こうして戦後のアメリカ現代詩の状況は保守的で生気に欠けるものとなっていた。
当然、こうした沈滞状況には革命が訪れる。それは1941年生まれのボブ・ディランが物心ついた50年代の後半を迎えてである。眠っていたアメリカ現代詩を過激な方向にもっていこうとする動きがいくつか起こった。そして、その急先鋒がビートであった。
当ブログのタイトルでもあるこの写真は実はビート派の代表者3人が移った珍しい写真である。右からW. バロウズ、A.ギンズバーグ、そしてJ.ケルアックの3人。ギンズバーグはビート最大の詩人である。ケルアックはご存知ビートの教祖、バイブル『路上』の作者、バロウズはクローネンバーグ監督作品にもなった代表作『裸のランチ』の作者、そしてなぜかバロウズ・コンピュータの創業者の孫でもある。
ビート派は当時、急速にアメリカに広がっていた「若者文化」「ヒッピー文化」とも連動して社会現象となった。ディランはビート派に影響を受けながら、ビートにも影響を与える存在であった。
これは1975年、J.ケルアックの墓前に詣でるディランとギンズバーグの写真である。アメリカの戦後を代表する詩人はこの二人だといっても過言ではない。
彼らの代表作を並べてみる。これら2つの詩はこのまま即興的に延々と書き連ねていくところも共通点である。
ぼくは見た
新生児のまわりに野生の
オオカミたちが群れをなすのを
ぼくはみた
ダイヤモンドの高速道路に
人っ子一人いないのを
ぼくは見た
黒い枝から
血が滴っているのを
ぼくは見た
狂気によって破壊された
ぼくの世代の最良の精神たちを
飢え、苛立ち、裸で
夜明け前の黒人街を
腹立たしい一服のヤクを求めて
のろのろと歩いていくのを
アレン・ギンズバーグ『吠える』
ディランというと「反戦」の用語でくくられることが多いが、有名な『風に吹かれて』も「答えは風の中で舞っている」というぼやかした表現をとっているし、実際に社会運動に参加したりすることはなかった。
ビート詩人たちが糾弾したのは権威・支配階級だけではなかった。戦後の急成長によって急増した中産階級の順応的・画一的な保守性でもあり、それはそれまでアメリカの現代詩を支えてきた保守性、つまりは先のノーベル賞詩人エリオットに象徴されるものであった。
さて、ディランの今後については授賞式に来るのか来ないのか話題となっているが私にとってはどうでもいいことである。エリオットがもらってディランがもらわない理由は全くない。でも、ディランがもらってなぜギンズバーグに授与されかったか('97没)、を考えるとシステムとしての不健全さばかりを考えてしまう今日この頃である。こと文学に至っては没後ある程度の年数を経過しないと真価を断ずることはできないのではないだろうか。
最後にディランの言葉で締めくくりたい。
ほとんどが心に自然に浮かんできた曲だ。夜中、そろそろ寝ようかと思ったときに向こうからやってきたような曲ばかりだ。
これを信じて待つこと早40年、である。