福島交通飯坂線で15分。医王寺前駅から延びる参道は、1689年(元禄2年)に芭蕉も歩いた道である。この道を歩いて約15分、1km程の道のりである。
源義経の忠臣であった佐藤継信、忠信兄弟で名高い佐藤一族の菩提寺である医王寺がある。
月の輪の渡しを越えて、瀬の上といふ宿に出づ。佐藤庄司が旧跡は、左の山際一里半ばかりにあり。飯塚の里鯖野と聞きて尋ね尋ね行くに、丸山といふに尋ねあたる。これ、庄司が旧跡なり。梺に大手の跡など、人の教ゆるにまかせて泪を落とし、またかたはらの古寺に一家の石碑を残す。中にも、二人の嫁がしるし、まず哀れなり。女なれどもかひがひしき名の世に聞こえつるものかなと、袂をぬらしぬ。堕涙の石碑も遠きにあらず。寺に入いて茶を乞へば、ここに義経の太刀、弁慶が笈をとどめて什物とす。
笈も太刀も 五月にかざれ 紙幟
五月朔日のことなり。 (『奥の細道』より)
山門を抜けると、本堂とともに芭蕉の句碑がある。
義経の太刀と弁慶の笈(おい、背中に背負うもの)を寺の宝として保管しているのを芭蕉も見た。時節は端午の節句。幟(のぼり)と一緒に飾ってほしい、という内容である。曾良の日記によると実際には宝物を見せてもらえなかった節がある。だとするとこの俳句も恨み節のように解釈できるから面白い。
さらに参道を進む。猛暑の中、深い木陰は涼しくて吹き抜ける風が心地いい。
向かって左、兄・佐藤継信は義経のために屋島の合戦に赴き、義経を守って壮絶な最後をとげた。向かって右・弟忠信はその後頼朝に追われた義経を京都の館から脱出させるために身代わりとなって討ち死にした。こちらが兄弟の墓である。
兄弟の母・乙和は悲嘆にくれた。彼女の墓のそばにあるこの椿は、その気持ちが乗り移り、蕾のままで花を咲かせることなく散ってしまう、といわれている。
芭蕉がもっとも感銘を受けたのは兄弟の妻である『若桜』と『楓』のエピソードであった。二人は悲嘆にくれる母・乙和のために甲冑を身に着けて勇士を装い、姑の心を癒したのである。自らの夫を失った悲しみを乗り越えて、である。「女なれどもかいがいしき名の世に聞こえつるものかな、と袂をぬらしぬ」とある。また、「堕涙の石碑」とあるのは、中国晋の時代、名武将で名高い羊公の石碑を読んだ者がすべて涙を流した故事にちなんで、それに匹敵するものであると賞賛している。
さて、これは薬師堂。
彫刻が見事であった。
医王寺を後にして、駅とは違う方角に向かう坂道を下っていった。曲がりくねった細い山道を歩いていくとやがて田園風景が開けて八反田川という川に差し掛かった。そこから振り返ってみると医王寺は河に沿った段丘の上に遠くあった。橋を渡ると飯坂へとつながる大きな道に出た。
この道筋は芭蕉の足跡と同じだと思う。今回歩いたこの細い坂道を「乙和坂」と呼ぶらしいことを飯坂温泉の古い旅館の女将に聞いて知った。そう、義経を慕い、その身代わりとなってこの世を去った佐藤兄弟の母親の名前にちなんでいる。