★Beat Angels

サル・パラダイスよ!誰もいないときは、窓から入れ。 レミ・ボンクール

海辺の蛍

山肌を縫うように進んでいた電車の車窓からの視界が突然大きく開けて斜めの水平線が飛び込んできた。電車は身をひるがえすようにカーブを曲がった後、速度を落として次の駅が近いことを知らせた。そして僕はこの駅を目的地にすることに決めた。

その頃、テレビのシナリオライターを目指していた僕だが、仕事もうまくもらえずに、友人に誘われて生活のためにポルノ映画のシナリオを書くバイトをしていた。とは言え、東京の安アパートに一人で閉じこもりっきりで書くシナリオにはおのずと限界がある。そこでなけなしの貯金をはたいて気分を変えるために一人旅に出ることにした。

 

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東京から各駅停車をほば丸一日乗り継いで降り立ったのがこの名前もしらない駅であった。駅を降りたのは既に昼下がりで、駅前は人影もまばらだった。電車の中から海が見えた方角に向かってさびれた家並みを通り過ぎていった。ある家の玄関先には老婆が二人すわり何やら秘密めいた相談をしている。やがて海沿いの堤防の道に出た。海岸線沿いに切り立った山が続いている。岩礁に波しぶきが押し寄せている。

 

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僕は民宿の文字を探して歩いていく。

 -いくらですか?
 -食事つきで7,500円だよ

見つけた民宿は全て予算オーバーであった。またとぼとぼと歩き続けていくと、やがてどうみても普通の民家だが、玄関先に民宿と書かれた看板が無造作に立てかけられている家を見つけた。僕は、ガラガラと引き戸を開けると玄関先の椅子に老人が所在無げにじっと座っていた。目を開けているのかどうかも分からない。それはまるで仏像か何かの置物のように見えた。僕は恐る恐る聞いてみた。

 -こちらは、おいくらですか?
 -・・・3,000円

老人は答えた。その足元を見ると犬が寝ている。老人と同じようにかなり高齢でくたびれた風情だった。やがて廊下からスリッパの音がしたと思うとエプロンをした女性が現れた。年のころは30歳前後か、髪の毛は短く、小柄でかわいらしい女性だった。ふっくらとした頬にはまだどこか少女のあどけなさを残している。彼女の夫は漁師で遠洋に出ており不在だそうで、民宿は彼女がほとんど一人で切り盛りているとのことだった。明るくはきはきとした口調に長旅の疲れが吹き飛ぶような気がした。僕はすぐにその民宿が気に入り、泊めてもらうことにした。

 

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僕は2階に通された。窓からは防波堤越しにすでに暮れかかった海と島が正面に見えた。そしてはるか遠く水平線近くには漁火が見えていた。

 -どうぞ、こちらの2階の部屋を。ここは朝の海がとてもきれいですよ。
 -ありがとう。
 
僕は食事もそこそこにして原稿用紙に向かった。そして、ストーリーに思いをはせた。

 一人の女優がいる。住所は・・・東京の中野にしよう。都会の生活に疲れた彼女が遺書を書くシーンだ。そして彼女は睡眠薬で自殺を図るのだ。睡眠薬は・・・何錠位必要だろうか・・・

僕はとっさに彼女に聞いてみることにした。部屋を出るとちょうど彼女がお盆にお茶を入れて、階段を上って部屋に向かって来るところだった。僕は彼女に尋ねてみた。

 -すみません。どの位睡眠薬を飲んだら死ねるか知ってますか?
 -・・・

彼女は面食らったような顔をして、階段で足を止めた。そして怪訝な表情で僕を見あげて何も答えなかった。

 -分からないですよね・・・

僕は頭をかきながら部屋に戻り、ひとまずは「100錠」としておくことに決めた。そして原稿用紙に女優の遺書を書き始めた。

 『・・・私はもう疲れました。仕事に明け暮れて生活もままならず、愛する人もいない・・・』

僕はそこですぐに行き詰った。書きかけの原稿用紙はそのままにして気晴らしに散歩して海でも見てこようと思い立った。玄関先に降りていくと彼女がいて僕を見て少し驚いたような表情をした。

 -海の方に散歩に行ってきます

彼女は黙ったまま何も話さなかった。宿を出て島が見える方に既に暗い道を歩き始めると、後ろから老犬がとぼとぼとついてきた。そのまま行くと竹藪の道を抜けてちょうど島が見える海岸に出た。そしてそこで道端の石を拾い上げて島に向かって幾度か投げつけた。

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やがてパタパタと走る音が聞こえたかと思うと彼女が現れた。

 -間に合いました!よかった!
 
かなり急いで走ってきたらしく、ゼイゼイと息苦しそうだった。何もそんなに急ぐことないのにと思いおかしくなって少し笑ってしまった。足元には犬が寝そべっている。

 -ははは。でもこの犬は長生きですが、のんきそうでいいですねえ

彼女は言った。

 -そうです。長く生きればもっと素晴らしいことがきっとあります

妙なことを言うなあ、と思いながら海に向き直った。彼女は少し焦るようにして僕の隣に立った。

 -あれはずいぶんと高い岸壁ですねえ。
  あの上から下をみたらめまいがするだろうなあ。

彼女は言った。

 -そうです!くらくらします。あんなところに行ってはいけません!

 大きな波が堤防に当たって砕け散る音がしていた。

 -まるで波にさらわれそうですね。

と僕が言うと、彼女は僕の浴衣の右腕をしかっとつかんで離すものかという姿勢をとった。

 -さ、さらわれなんかしても私は泳ぎがうまいのです!すぐに助けてしまいます!
 
僕はその勢いにあっけにとられて彼女の顔を見た。彼女は笑っていなかった。

 -・・・すぐに・・・助けます!

僕は一種の懐かしさを感じていた。
 
 -なんだか久しぶりに家族にあったような気がするなあ
 -そうです。家族だと思ってください

彼女は間髪入れずに答えた。

 -妹とか?
 -はい
 -お嫁さんとか?
 -・・・はい。それでもいいです。波にさらわれてはいけません

 

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しばらくして僕たちは犬を連れて宿に一緒に戻ってきた。彼女におやすみを言って部屋に戻ると、机の上の原稿用紙が畳に落ちていた。窓から海風でも吹き寄せたのかと思い、それをまた机の上に置き直した。結果的に書きかけのストーリーは見つからず、風呂に入って寝ることにした。風呂の湯は潮の味がした。そのまま上がることがもったいなく感じて、童心に帰ったように風呂に頭まで潜ってみることにした。

さて、実際に潜ってみるとお湯越しに風呂場の扉があいてバタバタと駆けつける足音と大きな声がして湯の中に2本の腕が入ってきて僕を抱えるようにして、体が引きずりあげられた。

 -風呂に潜ったりしてはいけません!都会で何があったとしても!
  
彼女は僕を引き上げると顔を胸に押しあてた。僕は不意の出来事にあっけにとられていた。風呂から上がって浴衣に着替えた。彼女はそれを手伝ってくれた。

 -あの、お爺さんは今いくつになりますか?
 -110才を超えています。うちの人が生まれたのはお爺さんが80歳のときだったらしいのです。
 -すごいなあ・・・そのそれが・・・ですが。
 -お客さん、そうです!生きてさえいれば・・・それだってできるんです!だから・・・だから・・・

部屋に戻ると犬が寝床にやってきていた。彼女がどうしてあんな不思議なふるまいをするのかを考えていた。枕もとでふてぶてしい顔を向けて寝ている老犬に声をかけてみた。

 -なあ、どうしてかなあ。もともとああいう風に情緒的な人なのか?
  それとも僕に気があるのかなあ?どう思う? 

犬はまずそうなものでも見るように僕からそっぽを向いた。僕は心を読まれたような気がして犬を蹴飛ばしてやった。すると犬はこれまで見せたことの無いような俊敏さで、僕の布団にもぐりこんできた。そして布団の中を暴れまわると脚に噛みついてきた。僕は叫び声を上げた。

また、階段をパタパタと走る音がしたかと思うと浴衣を着た彼女が部屋に飛び込んできた。

 -夜分にすみません。犬が脚に噛みつくもんだから・・・

 僕が謝ると彼女は布団で寝そべっている犬を抱き上げると涙ぐんだ目で僕を見た。

 -お客さん・・・犬に・・・犬に脚を噛ませたりなんかして・・・
  そんなに死にたいんですか?それほど生きる望みがなくなったんですか? 

彼女は犬を畳におろすと黙って立ち上がり、浴衣の紐をといて裸になった。豊満な胸が夜の闇の中で白く光っていた。そして僕に向かって覚悟を決めたようにこう言ったのだ。

 -あたしを抱いて下さい・・・死ぬことなんかばかばかしくさせてあげます。
  あたし・・・自慢なんです。うちの人はいつも言います。お前のためならずっと
  生き抜いて幸せにしてやるって・・・

彼女は僕の前に歩み寄ってきた。

 -だからお客さん・・・私を抱いて下さい!
  人助けですから・・・うちの人も許してくれます・・・  
彼女は机の方に歩み寄っておいてあった原稿用紙を取り上げた。そして僕に向かってこう言った。

 -だからこんなことを書くのはやめてください・・・

彼女は泣きじゃくっていた。まるで子供のように大粒の涙が流れていた。僕は状況を理解した。

 -な・・・泣かないでください・・・そんなに・・・
  これは・・・実は・・・つまり・・・

彼女に誤解を解こうと説明しかけたその時だった。つーっと光が暗い部屋の一筋走ったかと思うと、ゆらゆらと舞って彼女のはだけた胸元にそっと停まった。
 
僕はそれを指差した。

 -あ、ほらそこ・・・

青白い光はその豊かな乳房を淡い光で照らしていた。淡い光が滑らかな肌をさらに透き通らせていた。僕は狼狽しながらも「すばらしい乳房だ蚊が居る」という山頭火だったか放哉だっかたの俳句を思い出していた。
 
彼女が声を上げた。

 -あ、とんだ!

蛍は舞い上がって逃げ出そうとしていた。僕はうす暗闇の中で飛び回る蛍の光を追いかけた。部屋の中をドタバタと走り回っていると彼女がくすくすと笑い始めるのが聞こえた。やっとのことでそれを両手の平の中に捕まえた。それをそうっと彼女の前に持って行って顔を近くに合わせるような形になった。
 
 -捕まえましたよ
 -ほんと・・・

 

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そうっと両手を開いてみる。淡い光が僕と彼女の顔を照らし出した。二人はそのまましばらくだまって蛍の灯りを見つめていた。蛍の光は彼女の頬の涙のあとを照らしていた。それはまさに草に宿った月の光のひとしずくであった。しばらくの静寂のあと、彼女は蛍を見つめたまま小さな声で語りかけるように口を開いた。

 -・・・死んだらいけません

僕も蛍を見たままで答えた。

 -・・・死にはしません

彼女は顔をあげて僕の顔を見た。

 -本当に?
 -本当にです
 -うれしい! 

彼女は満面の笑みを浮かべ、顔をくしゃくしゃにしてうれし泣きをしていた。彼女は、浴衣を拾い上げて胸から下を隠すように抱えるとこう言った。 

 -もうすぐうちの人が帰ってきます。そうしたら向うの岬に連れて行ってもらって下さい。すごく美しいです・・・
 
僕は結局、その海辺の町で仕事をするのはやめて東京に戻ることに決めた。東京の暗い空の下でも何か書けるような気がしたからである。駅の上りのホームのベンチに座っていると、どこからもぐりこんだのかあの老犬がとぼとぼと歩いてきてベンチの横に座り込んで僕の顔をじっと見あげた。僕は彼に話しかけた。 

 -そんな顔をするなよ。お前にはきっとわかっていたんだろうね。僕は東京に帰ってもきっと忘れないよ。彼女のこと、お爺さんのこと、そしてお前さんのこともね。