★Beat Angels

君がすべきことはただ一つ、ニューヨークへ行くことだ -ジャック・ケルアック

落日

 これは私が売れない童話作家として妻と幼い娘の3人でごくごく慎ましい生活を送っていた頃の話である。その頃、私は原稿用紙だけをバッグに詰め込んで山あいの小さな町を旅するのが好きだった。それも滅多に人が訪れないような人里離れた場所を愛していた。私の生まれ育ったのがそういう田舎町だったせいだと思う。その当時、一家の将来に対する不安が無かったと言えば、家庭のことになど頓着しない無頼派の作家だと思われるかもしれない。でもその頃の私には文学への情熱が渦巻いていた。家族二人を食べさせていくのがやっとという生活に逢っても結構幸せだった。妻もそのあたりの私の性格をよく理解してくれていて間欠泉のように突然沸き起こる遠い旅への衝動にも笑顔で送り出すことを忘れなかった。一緒に来ないか、幾度言い出そうかと思ったかはわからない。時折、忘れたように入ってくる私のわずかな原稿料で苦しい家計をやりくりしていた妻が首を縦に振るはずはなかった。私は年に2,3度のそんな旅を妻がそっと忍ばせておいてくれた薬と幼い娘を抱き上げた妻の写真の入ったバッグを片手に山奥の道を歩き続けたのだった。

 その年の晩秋に訪れたところもその例にもれず、片田舎の駅から乗り合いバスをなんどか乗り継いで最後は山道を歩くような山村であった。ちょうどもみじの紅葉が見事な時期であった。雑木林の紅葉のおりなす錦絵の世界の中を長旅の疲れも忘れて歩き続けた。時折、彼方から猿の寂しげな鳴き声が聞こえる。いくつか峠を上り下りしているうちに自分のいる高度が空気の張り具合でわかるようになっていた。それほど空気が澄みわたっていたからである。バスを降りて小一時間ほど歩いたあたりで次に向かう峠の方から、カン、カンというかん高い音が聞こえてきた。大自然の懐に抱かれていた私にはそれが人間の営みであることがすぐにわかった。内心ほっとした気分であった。私は歩を進め最後の峠への急な坂道を進んだ。

 峠のいただきに来るとすり鉢状に広がる盆地と今回の目的地である集落が見渡せた。盆地の向こう側を見ると形のいい山が二つ並んでいるのが見えた。それは奇妙なほど双生児のごとく女性の乳房を連想させるものだった。陽はすでにその双子の山の谷間に近づいていた。私はいつまでもその風景を見ていたい気持ちになった。でもそれを抑え込むようにしてその頂を後にした。

 私がその頃、子供向けの童話を書く合間に書き進めていた小説がある。それは世阿弥謡曲「檜垣」を題材としたものだった。かつて美女の誉れ高かった舞女が現在の老醜を呪って怨霊となり、通りすがりの僧侶あいてにわが身の不幸を嘆き供養してもらう、というものだった。学生時代に友人に誘われてこの謡曲を見たことがある。最後に老女が僧侶の前で披露する舞が痛切なほどの悲哀に満ちて美しかった。老女の嘆きの表情が能面越しに伝わってきた。そしてそれ以上に私が興味を持ったのはこの美しい謡曲が書かれたのが世阿弥が流刑の地であった佐渡で書かれたという事実を聞いたことである。遠い異国の地にあってあれほど純粋な物語を結晶化できたことに世阿弥という人の本質が隠されている、と私は考えていた。そんなこともあって私はできるだけ孤独に身を置いて彼の心情に少しでも近づいてみたい、と考えていた。今回の選んだこの場所もそれにうってつけの場所のはずだった。

 峠を降りていくと道は平たんになった。しばらくいくと集落に差し掛かった。最も手前にある家屋の前で白髪の老人が薪を割っていた。さきほどからの音はこれだったのである。私と目が合うと手を止めて頭を下げた。私を見るなり「加藤さんですかね」と声をかけた。独特のなまりがあって聞き取りにくかった。老人の名前は岩内といい、孫娘と二人でこの家に住んでいるとのことだった。一応民宿という看板は掲げているものの最近ではほとんど訪れる人はない。私も今年初めての客だそうで恐縮してしまった。

 それから私は2階に通された。案の定、殺風景な部屋だった。部屋の中央に小さなテーブルが一つ置かれているだけだった。老人は私より先に部屋に入ると裏山に面した窓を開けた。部屋の中が一瞬にて赤にそまった気がした。その窓からは裏山のもみじが夕日に美しく染め上げられているのが一望できたのである。

「見事ですね」

私は感嘆のあまり老人にそうつぶやいてしまった。老人は珍しくもないという笑みを浮かべただけだった。
「ここからはみえないんだども、この山の向こうに二子山ちゅう並んだ山があって、そのちょうど真ん中に陽が沈む今時分が一番もみじがきれいなんだ。だども女山にかかるようになるともう雪さ」

「ここに来る途中でその二子山というのを見ました」

それからしばらくの間、老人と私は窓から差し込む赤い光に照らされていた。

「じきに湯も沸くころだからゆっくりつかるとええ」

そう言い残して老人は部屋を出て行った。私は窓を開けたままにして煙草を取り出して一服した。

 私はさっそく仕事にとりかかろうとバッグから原稿用紙を取り出しテーブルにそれを置こうとした。テーブルの上には薄く白い埃の層ができていた。私は持って来てきていたハンカチでそれをきれいにぬぐい取り真っ白な原稿用紙に向かい合った。そして両津の港に降り立った世阿弥の心持に近づこうとしていた。
 その時である。部屋の入口の戸が音もなく開いた。そこに立っていたのは年の頃ならば17、8の若い娘だった。それが老人の話していた孫娘であろうと思った。長い髪がつややかで美しい。この民宿には老人と二人きりなのである。娘は化粧もしていないせいか、その素朴さになかに天性の妖艶さを秘めているようでもあった。娘は黙って立ったまま開け放たれた窓から夜の風景を見ていた。

「やあ、こんにちは」

 私は声をかけた。ぼうっとした視線はもみじに向けられていただけだった。私はその顔を眺めながら美しい娘だな、と思った。背丈はおそらく私くらいあるだろう。伸びきった肢体にはすでに女のにおいを漂わせていた。私の視線に気が付くと表情も変えずに私の横に座った。そして書きなぐりの原稿用紙を見ていた。座りながらも右手はさかんにスカートのすそをいじっている。そのたびに見え隠れする膝頭に私は目のやり場に困ってうろたえていた。

「おもしろいかい」」

 私は狼狽を隠すように娘に聞いてみた。娘の視線は相変わらず落ち着きがなく定まっていない。

「おじさん、どっから来たの?」

娘の言葉は媚びを売るように口の中でくぐもり聞き取りにくかった。

「横浜だよ」

娘は顔をパッと輝かせたかと思うと、

「ヨ・コ・ハ・マ?」

一音、一音く確かめるように聞いてきた。私がうなずくと、

「ヨ・コ・ハ・マ?」

 まるで言葉の響きを楽しんでいるかのようにうれしそうな表情をしていた。私もつられて愛そう笑いをしていた。その時である。娘は突然来ているものを脱ぎ始めた。みずみずしい乳房が露わになったところで我に返った。ただ、その時はすでに遅く、娘は最後に身に着けていたものを脱ぎ去ると私に抱き着いてきた。その拍子に私は体制を崩して倒れこんでしまった。テーブルの上の茶碗がひっくり返り、まだ熱い湯が娘の大腿にこぼれ落ちたのだろう、小さな叫び声を上げて後ずさった。露わになった大腿を撫でている。お茶がかかったところが赤く腫れているのがわかった。娘のおびえた表情に引き寄せられるように近づいた。それを察知していたように娘は私を迎え入れるように背中に手を回した。

 その時、ドタドタという音を立てて階段を上る足音が聞こえた。そしていきなり戸が開いた。老人は慣れたように私たちのそばに歩み寄ると娘の長い髪を乱暴につかんで引っ張りあげた。娘は悲鳴を上げた。

「なんべん言うたらわかるんだ、このガキは!」

 娘は泣き出していった。

「じいちゃん、ゆるして!」

 老人は娘を立ち上がらせてあたりに散らばった服と下着を拾い上げて娘を部屋から追い出した。

「ほら、ちゃんと服を着るんだ」

 と娘に吐き捨てるように言った後で私に向き直った。申し訳なさそうに頭を下げると、

「孫がとんでもねえ迷惑をかけちまって」

 それだけ言うと階段を下りて行った。私は突然のこのなりゆきに我を失ってその晩は仕事も手につかず、長旅の疲れも手伝って眠ってしまった。

 翌朝、目を覚ますとすでに薪を割る音が響いていた。私は老人のところに行った。幸い娘と顔を合わせることもなかった。老人は私に気が付くと仕事の手を休めてキセルに火をつけた。ひとつ煙をくゆらせた後で、

「かおりは両親に早く死なれたせいかここがちっと弱くてのお」

 老人は自分の頭を指さした。

「ちっと目を離すと素っ裸になって男を誘う性悪だ」

ふう、とため息をつくとまたナタを手にした。

「どうか忘れてくだせい」

 それから数日の間、私は仕事に没頭した。時折、そのカオリと呼ばれた娘を顔を合わせることはあったが、相変わらずのうつろな眼差しはこれといった反応を示さなかった。ある日、私は気分転換に散歩してみようと思い立った。その集落をさらに抜けていくと10軒ほどの人家があるだけで果てしない雑木林の小道となった。それとともに人の気配もなくなった。ふと、雑木林の中に抜けていく道を見つけた。けもの道なのか、草深い道の果てはうっそうとした草木におおわれ、まだ昼下がりだというのに夕暮れ時のように暗かった。私は気まぐれにその道をすすんで見ようと思った。

 足に絡みつこうとする草を振り払いながらしばらく進んでいくと急に視界が開けた。そしてそこに私が見つけたのは小さなほこらだった。こぎれいに片づけられていてひなげしの花が小さな花瓶に生けられていた。誰かが周りを毎日掃除しているのだろうか、周りの雑草はきれいに刈り取られていた。ほこら自体は無造作で粗末なものだった。私がそれを見ていると後ろから私がさきほど来た道を進んでくる足音がした。私は咄嗟に身構えた。クマか、その類のけものだと思ったのである。やがておらわれたのは頬かむりをして手にカマをもった大柄の老人だった。私は想像を超えて驚き、声をあげそうになった。でも、もう一方の手に一輪のヤマユリの花を持っていることにも同時に気が付き、大きな声をあげることからは免れた。彼はほこらの前まで行って一礼すると手にした見事なヤマユリを花瓶に生けた。彼は私に背を向けたまま言った。

 

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「旅のひとかね」

 意に反して優し気な声だった。

「ええ、先週から来ています」

老人はほこらに向かって手を合わせていた。長い沈黙があった。私は話しかけてみた。

「このあたりを掃除なさってるんですか?」

老人は振り向いて頬かむりを外した。

「いいや、これはおれじゃねえ。これは岩内のところのカオリの仕業でさあ」

 私は意外なところで登場したカオリの名前に驚きながら改めてほこらの周りを見回した。老人は続けた。

「あんたも岩内んとこに泊まっているだったらもう見たろうが、不憫な娘でなあ。あんだけ器量よしなのにあんな不幸がなかったらなあ」

 老人は悲しそうな憐れむ表情をした。それからそのほこらのういわれを説明してくれた。もう何百年も前にこんな話があったそうだ。

 この里に体の弱い娘が住んでいて毎日、阿弥陀如来に願をかけていたらしい。ある日、二子山のちょうど間に夕日が沈んだ時のことだった。山の間がまばゆい位に輝き、阿弥陀如来が現れた。そして地面からみるみるお湯が沸いたというのだ。娘がその湯につかるとたちどころに病は癒えてしまった。それ以来、ここに阿弥陀如来を奉ってあるとのことだった。

 老人はそのたちどころに沸いたという露天風呂の場所を教えてくれた。私はそれからあたり一帯を歩き回ったが、ずっとさきほど老人が話してくれた伝説が頭を離れなかった。毎日、あのほこらに足を運んでは花を活けてまわりを掃除するカオリの姿が伝説の娘と重なりあうのを感じていた。

 やがて陽は傾きあたりは浅い夕闇に包まれ始めていた。山間の夕暮れというのは驚くほど早いのである。夕食の時間にはまだ時間があったので私は老人の教えてくれた露天風呂にさっそく行ってみることにした。

 そこは民宿の裏山に続く小道を少し上ったところだった。周りを低木に囲まれていた。時折吹きおこるヒヤリとした風が頬を投げていく。私は一時の安らぎに身も心もゆだねていた。

 その時、人の気配がした。白い湯気の向こうに女性らしい輪郭がぼんやりと見えた。カオリだった。私はとっさに岩陰に身を寄せた。カオリはすでに全裸だった。そして私には気づいていない様子だった。再び静謐があたりを包んだ。この湯からは双子の山がきれいに見渡せた。そして今、夕日がちょうどその間に沈もうとしている。油煙を染める赤が際立ってきた。時折、湯煙の向こうにカオリのしろいうなじと豊かな乳房が赤に染まっているのが見えた。湯を両手で救い上げては両の腕から投げれ落ちるのを童女のように楽しんでいるようだった。

 私はすでに長い湯でのぼせ上がっていた。静かに立ち上がるとカオリの方に歩み寄った。夕日を背にした私の影がカオリの周りに影を作った時のことだった。カオリはハッとして私の方を見て、おびえたようにして立ち上がった。そして両手を合わせて目を閉じた。そのままの姿勢でこういった。

「ああ、阿弥陀様・・・」

 私が振り返ってみると確かに夕日が双子の山の間に沈もうとしていた。それは私がそれまでみた夕日の中で最もまぶしい赤だった。私は思わずカオリを両手で抱きしめた。哀れな娘は体を小刻みに震わせていた。そして目を閉じたままで泣きながら同じことばだけを何度も繰り返していた。

阿弥陀様・・・阿弥陀様・・・」

 

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