読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

★Beat Angels

君がすべきことはただ一つ、ニューヨークへ行くことだ -ジャック・ケルアック

アメリカで蝉の声を聴いて思い出した話

 小学校4年の夏休みのことだったと思う。

 同級生のツヨシ君にひょうたん沼にカブトムシを取りに来ないか、と誘われた。ひょうたん沼はツヨシ君の家の敷地内にある小さな沼で、昼でもうっそうとした森の中にひっそりとあり、私有地であり人が足を踏み入れないのでカブトムシがたくさんいる、と言われていた。
 誘われたのはアキヒロ君、クニヒコ君、アキラ君と僕の4人である。カブトムシは夜行性なので明け方のまだ暗い頃合いが一番、カブトムシがとれる、というのだ。僕たちは第2公園で午前5時に待ち合わせをした。まだあたりはうす暗い。今日は朝のラジオ体操は毎朝6時半から始まる。今日はアキラ君のお母さんが今日の当番で来ることになっていたが、僕たち4人はサボることに決めていた。
 旧国道13号線を自転車で北上した。朝早いので車の通りはない。僕たちは国道で
ジグザグで走ったり、競争したりしながら進んでいった。やがて住宅地を離れると
目の前が一面の緑色になる。広い水田がどこまでも広がっているのだ。道の向こうに遠く塩釜神社のある小高い山が見えた。(塩釜神社は仙台近郊のそれが有名ではあるが、そこではこちらが実は本家だと言われていた。真偽のほどは定かではないが、その後大人になった僕はおそらく偽であろうと思っている。)
 小一時間も自転車を走らせると八反田(はったんだ)川と交差する地点まで来た。
去年はこの川で魚取りをした。水泳パンツとゴーグルをつけて水にもぐって自作の
銛で毎日、魚をとった。ある日、急に苦しくて長い時間水の中でもぐっていられないことに気がついた。そう、水温が微妙に変化したのだ。これを感じると間もなく夏は終り、そんな移ろいを実感していた。
 僕たちは国道を降りて川沿いの堤防の道を下流へと向かって行った。しばらく進めるとこんもりとした小さな森が近づいてきた。目印の赤い橋のたもとまで来た。そこにはツヨシ君が虫取り網をかついで待っていた。昨日の夜、ツヨシ君はクヌギの木々に、あまい樹液をたくさん塗っておいた、だからカブトムシがたくさん来ている、と僕たちに言った。僕たちは赤い橋の近くに自転車を止めて、森の中に歩いて行った。すでに日の出の時刻は過ぎてはいたが、森の中はまだ薄暗い。木々の間を縫うようにじめじめした道を歩いていくと、やがてひょうたん沼が現れた。そしてひょうたん沼の向こうが目指すクヌギの木の群生である。
 僕たちはカブトムシが逃げないようにそうっと草深い道を進んだ。その何本かには樹液に誘われて集まってたカブトムシがいて、友人たちは小さな歓声を上げてカブトムシを捕まえていた。でも、僕にはなかなか幸運がめぐってこなかった。僕はカブトムシを求めて、さらに草深い道を奥に進んでいった。とあるクヌギの木を見あげると地上から5mくらいのところにカブトムシが数匹群れているのが見えた。僕は心の中で喝采をあげて、その木を登って行った。低いところから枝が分かれていたので比較的簡単に登っていけた。あと少し、というところまで来たときにその枝の一本に女の子がちょこんと座って、カブトムシを見あげているのが見えた。下から見あげたときには気がつかなかった。

 あ、ヒトミだ。僕は思った。

 同級生の女の子だった。あまり学校で女の子と話をしたことがない僕は少しうろたえていた。ヒトミは色白できれいな娘だったが、その整いすぎた顔立ちから少し冷たく、少し近寄りがたい、印象を持っていた。Tシャツと白いショートパンツ姿で手も足も白くて細い。足を枝からぶらぶらさせていた。僕をみて少し微笑んだけれど、とくにこんなところで急に出会ったことにびっくりした様子もない。

 ヒトミは、ねえ何か思い出になるものちょうだい?と僕に言った。

 僕はなんだか意味がわからなかったけれど、ポケットの中をまさぐってみた。するとくしゃくしゃになった青写真(太陽の光で感光させる写真)が出てきた。それは透明な3角定規の写真でメモリとか定規を作った会社の名前とかがくっきりと残っていたので気に入っていてもっていたのだ。それをヒトミに渡した。

 ヒトミはちいさく、ありがとう、と言った。

 僕は木を見上げたけれど、カブトムシはいなかった。ヒトミは何事もなかったようにまだ枝に座って上を見上げていた。僕はなんだか怖くなって木を降りることにした。地面に降りてその木を見上げてみたが、ヒトミの姿は見えなかった。枝葉に隠れて見えなかったんだ、と僕は自分を納得させた。僕たちは薄暗い森から外の世界に出た。もう、太陽は高い所にあった。僕は友達にカブトムシはとれなかったとは告げたが、ひとみに出会ったことは少し気恥ずかしかったので伝えなかった。のの後、僕たちはツヨシ君といつの間にか迎えに来ていた彼の父親に礼を言って家に帰った。そして、ラジオ体操をサボったことで母親にしかられた。

 さて夏休みが終わり、学校が始まった。先生はヒトミの一家が夏休みの間に急な理由から引っ越した、と僕たちに伝えた。あまり目立つ子ではなかったのであまり反響もなかった。僕はあの日木の上で、ヒトミに出会ったことを誰にも告げなかった。そして、それ以来僕も彼女のことを今日まで完全に忘れていた。

 それを今日、アメリカで蝉の声を聞いて珍しいなあ、と思った瞬間に急に思い出したのであった。