★Beat Angels

サル・パラダイスよ!誰もいないときは、窓から入れ。 レミ・ボンクール

幻想と幻滅(ボルヘスとカントール) 

 一種の現実逃避だと思うが、時に自分だけの宇宙を作り上げてそこに埋没してみたいと思うときがある。そんな時にいつも手にする一冊の本がある。物心ついた高校生の頃から最低でも一年に一度は読んでいる。不思議なことに旅先でふと急に読みたくなることがある。昔、小諸を一人で旅して、小諸城址の中にある若山牧水の歌碑の前に立っていたその瞬間、思わずそれを読みたくなった。思わず小諸駅前の本屋さんに飛び込んでその本を探す。小さな書店しからないのでそんな本は置いていない。そこで長野駅まで引き返して大きな書店でそれを探す。所望の本を購入して、また牧水の歌碑の前まで戻ったのは5時間後、そこでその本をむさぼるように読んだ。

 

その本がなければこの旅は失敗に終わる。今後どんな風景、どんな人に出会おうともその本を読まないと全てが水泡に帰してしまう。私にはそんな本がある。

 

 アルゼンチンの作家J.L.ボルヘスの『バベルの図書館』だ。それは短編集の中でほんの15ページほどの短い小説。そしてそれを読み始めると、一行目から私の頭の中には巨大な建造物が少しずつ聳え立ち始め、最後にはそれが暗黒の宇宙空間に飲み込まれる、あるいは宇宙空間を食い尽くして自らが宇宙となる。そのシナリオはいつも同じではない。その時々の年代、心象によって違った顔を見せる。

 

 そして私はここにタイトルに「幻滅」と書いた。それはバベルの図書館に書かれた膨大な書物の存在を否定する数学的な事実に気がついたからだ。

 

 バベルの図書館にはあるとあらゆる書物が所蔵されている。その数は無限だ。その図書館に存在しない本はない、といわれている。ありとあらゆる文字の組み合わせの本がそこに存在する。一見無意味に思える「AAAA…」だけを羅列した本もある。私は高校生の頃からその「事実」を漠然と受け止めていた。

 

しかし私は大学生時代に数学者カントールに出会う。カントールは近代集合論の創始者で無限と無限を比較するという無謀な、一種神に近づく試みをした挙句に心身に異常を来たしこの世を去った。彼の言う、「無理数有理数よりも多い」という一言とその証明に私は胸を躍らせた。

 

ある日、私は空想の中で、ボルヘス図書館に所蔵されている無限の書物カントールの光を照らしてみた。すると「ボルヘス図書館に所蔵できない本が存在する」という驚くべき結論に到達し、私はその事実に震撼した。

 

 その証明を以下に示す。

 

1. バベルの図書館に所蔵されている本全体の集合をΩとして、その本全体に順に番号を付与する。番号の付与の仕方はボルヘスの詳細な書物の配列の説明から容易に想像がつく

2. 何も書いていない本とペンを用意する。

3. Ωの中の第一冊目の本を取り出す。その一文字目を取り出す。それと異なる文字を選び、何も書いていない本の一文字目として書き出す。ここで異なる文字とはある種の規則、 例えば、A→BB→Cというような巡回型の選定方法でもいいし、あるいはまったくでたらめな選び方でもいい。
 
4. 次にΩから2番目の本を取り出し、その2番目の文字を取り出す。また同様にそれと異なる文字を選んで新しい本に書き出す。
 5.
これを無限に続ける。
 6.
そして最終的に新しい本が完成する。その本は、Ωのなかのどの本とも内容は異なる。従ってその本はバベルの図書館には存在しえない。つまり、バベルの図書館に所蔵していない本が存在する。

 

という推論による。いわゆる「カントール対角線論法」である。彼が無理数有理数よりも「多い」ことを証明した手法と同じ手法を用いている。

 

このことはバベルの図書館の幻滅に至るや?否。私の中のバベルの図書館は以前にも増して幻想度を増幅された。それはカントール集合論もまた一つの宇宙そして幻想だからだ。幻想は幻想を凌駕することはできない。いずれも聖域である。それらはそれぞれの宇宙として対峙してそしてお互いに決して侵すことのできない畏敬の念を抱いている、と私は見る。