★Beat Angels

サル・パラダイスよ!誰もいないときは、窓から入れ。 レミ・ボンクール

牛乳ビンの蓋

先日箱根のとある温泉街を訪れた時のことである。

 

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風呂の出入口付近にこういう自動販売機を見つけた。


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一見して「旦那(だんな)」と読めてしまったが、この丹那(たんな)は南箱根の盆地の地名、そして丹那牛乳は箱根地元の牛乳メーカである。



早速1本購入。

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ガラス瓶特有のズッシリ感がいい。そして蓋は昔懐かしい紙製である。

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このつまみの部分を持ち上げて開ける。何十年ぶりにやってみたのだが、空気が抜かれているので蓋はしっかりと締まっていて簡単には開かない。蓋の裏には樹脂が塗られているので密封度は高く、逆さにしても中身が漏れたりする心配がない。開ける瞬間にポン!という小気味いい音がする。小学生のときに開けるのが下手でいつもこぼしている旧友がいたがこうした日本ならではの技術工芸のなせる技であったわけである。

つまみを開けるときの微妙な指の力の入れ加減を久しぶりに味わった瞬間、小学校当時の場面が走馬灯のように浮かび上がった。そう、旧友たちとこの蓋を集めて、大切に机に隠していた。そして昼休みは、これをメンコとして遊んでいたのだった。そのワクワクした気分までが指の感触を通して呼び覚まされたのであった。

 

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蓋のこの小さなつまみは手の大きい人には開けにくい。そういう人のためにこういう道具もちゃんと発明されていた。なんと驚いたことにまだAmazonで今でも購入可能である。

 

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春、雨、そして梨の花

温かい雨の降る春の日、ぼくは傘の列がすれ違う町の通りを当てもなく歩いていた。そこで不意に呼び止める声を聞いた。大学時代の友人Kであった。振り向いた僕には赤い傘がすっとKの傘の後ろにすっと隠れるように動くのが見えた。そこには楚々とした長い髪の女性が立っていた。

Kとは大学は違ったがサークルで知り合い、時々飲みにいった仲だった。それから僕たちは就職してもう5年になるが、この間は疎遠となっていた。当時、渋谷のセンター街の小さな居酒屋で二人で飲んだ時のことを思い出した。その夜、Kはなぜかひどく怒っていた。

-なにが腹が立つというと、清少納言の梨の花の話だ。彼女に言わせれば梨の花は愛嬌がなくて不愛想で風情がないそうだ。まったく価値がない、とまで言っている。本当に梨の花を見たことがあるんだろうか。梨の花は恥じらいの花だ。確かに花の色は淡くて一見味気なく見えるかもしれない。でも花をよく見てみると花びらの端には薄い紅色が見える。それはまるで自分の魅力に気づいていない奥ゆかしさだ。それが本当の美しさというものだ。他の花の傲慢さとは比べ物にならない。

彼は気色ばんでまくし立てた。僕はなぜそんなにむきになるのか理解ができないままその晩は別れた。

そしてたった今、再会したKは陰に隠れた女性を僕に紹介した。間もなく結婚するとのことだった。

-リカといいます。

-リカとはどういう字を書きますか?

-果物の梨に花、です。

-ひょっとしてKと知り合ったのは学生時代ではないですか?

ーはい。でもどうして?

 僕はKが思い出すかとの顔色を覗き込んでみたが、Kは学生時代の会話など完全に忘れているようだった。

僕は彼らに提案した。

-雨も上がったようだし、お祝いを兼ねて3人で一杯飲んで行きませんか?今日は僕がおごります。ぜひ梨花さんに聞いてもらいたい話があるんです。

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キルヒャーの仕事(その3:エジプトの迷宮)

ルネサンス期の博物学キルヒャーバベルの塔ノアの方舟に引き続いて、エジプトに関する歴史家の資料を基に空中庭園、地下迷宮の研究に着手した。


その一つが古代エジプトのマレオティス湖畔にあったと言われる巨大地下迷宮である。文献の記述でしか残っていないのでキルヒャーの研究は困難を極めたがそれをきちんと絵として仕上げるという偉業を成し遂げた。キルヒャーの描いた迷宮がこれである。

  

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壮麗さという点ではピラミッドに負けていない。ちょうど町一つ分の大きさである。中央に霊廟、周りには12の守護神に従って区分されている。この迷宮には神官が一人住んでいる。なぜ、このような迷宮の形をとるかというとこれら神々の霊力を集めてそれを中央に集中させ、魔法の儀式を行うためだったとキルヒャーは分析する。そしてクレタ島の迷宮などもギリシャ人がこれを模したものであると考えた。

この図柄は密教曼荼羅にどこか通じる。金剛界曼荼羅全図。

 

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続いてキルヒャーは紀元前200年ごろの次の言い伝えに着目する。

アルキメデスの天日取り鏡

 

 紀元前214年から212年にかけてローマの軍勢マルケロスがシラクサを包囲したとき、アルキメデスが招かれて力を貸した。彼はローマの軍船に対して陸上から太陽の光を集めて燃やしてしまう鏡を考案した。これによりローマの軍船を排斥したのである。

 


この言い伝えに対してデカルトなどは科学的にありえない、で一蹴した。
しかしキルヒャーはこれを信じた。そして実際にシラクサの地を訪れて船団と陸地との距離を算出した。そして幾何学的な考察から鏡は楕円の曲面を模して配置されたと推察した。彼の説明図はこれである。

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彼はパリにある宮殿で公開実験を行い、100枚以上の鏡を使って木片に着火させることに成功した。これによりキルヒャーの推論の正しさとアルキメデスの伝説の信ぴょう性が15世紀という時間を超えて証明されたわけである。

その頃から近代科学の波が押し寄せ、実利が優先される時代となる。キルヒャーデカルトの執拗な批判を浴びて歴史の表舞台から姿を消し、彼の貴重な研究成果は忘れ去られていった。残念なことである。

 

『ドクター・スリープ』(スティーヴン・キング)

本作品はスティーブン・キングの「シャイニング」の続編である。前作が1977年だったのですでにすでに40年近くが経過したことになる。「シャイニング」はキューブリック監督の映画でも有名となった。ゴシックホラーの形式を巧妙に取り込みながら、モダンホラーというジャンルそのものを確立した金字塔的な作品である。主人公の少年ダンはすでに中年、かつてのオーバールックホテルでの惨劇の後遺症に苦しめられている。同じ能力”かがやき“を有する少女アブラとの不思議な交感、そして謎の悪党団”首頭団“との壮絶な戦いが描かれる。

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下巻2冊のかなりのボリュームだが「シャイニング」の時と同じように一気呵成に読んでしまった。当時、私は古ぼけた社宅に住んでいてクーラーがなかった。そして熱帯夜の暑さに耐えきれず、ホラー小説を読んで気を紛らわそうと考えて手にしたのが「シャイニング」であった。それは見事に奏功した。心の底から震えあがるような恐怖というものを体感した。それが癖となってそれ以来、キングの作品は読み続けている。最近では「アンダー・ザ・ドーム」の次に読んだ作品となるが、最近、かつてのキング節がまた戻ってきているという印象を受けた。

前作と共通するのはゴシックホラー形式で閉じた世界の中での惨劇だということ。「シャイニング」でも作品の舞台は冬場の営業停止したホテルの中だけであった。確かにトランス一家の3人にとっては散々な悲劇だったろうがそれ以外の普通の世界とは没交渉である。接点があるとすれば歴史あるホテルが焼失して後片付けが大変だったろう、程度である。今回はそれに比べれば全米を駆けまわるような壮絶な戦いが繰り広げられるわけだが、結局その戦いに関係している者たち以外には迷惑がかからないという点ではある意味で閉じたお行儀のよさが踏襲されていると考えられる。

キングは悪党を描かせたら他に並ぶものがない。その筆頭は「スタンド」のランドルフ・フラッグであろう。今回は女性(?)のローズ。やることは普通の悪党と変わらないが、背景はそう単純で軽薄ではない。確固とした主義・主張を持ち、彼らなりの宿命に追われている。その宿命が脇の甘さにつながって崩壊していくことになるのだがそこにリアリティがありどこか心底憎めずに心に深く刻まれることになる。

今回の作品には「シャイニング」で焼失したオーバールックホテルの跡地として遊園地「ルーフ・オブ・ザ・ワールド」が登場する。この場所を最後の決戦の舞台として選んでくれたことであの場所に40年ぶりに帰ってきた、という感慨と懐旧の念を感じた読者も少なくないのではなかろうか、と思う。今でも私の心の中のオーバールックホテルにはブルーのワンピースを着た双子の姉妹、そしてあの217号室(映画ならば237号室)にはあのおぞましいマッシー夫人が今でも私を待ち構えてくれているのである。

最後に、もうお分かりと思うが、この作品は先に「シャイニング」を読むことを前提としているので注意願いたい。さていつもそうだが次に待ち遠しいのは映画化である。キューブリック亡き今、キングの厳しい監視の中でメガホンを握る勇気のある映画監督はだれであろうか。

雨のブックセンター

六本木の街をあてもなく歩いていると不意に雨が降り始めた。

通り過ぎる人たちは立ち止まってカバンから傘を取り出している。僕はあいにく天気予報をみてこなかったので傘は持ち合わせていない。目の前にあるビルに「BOOK」の文字があるのを見つけてこれ幸いと急いでその書店に飛び込んだ。

書店の入り口の大きなガラス越しに舗道を通り過ぎる人たちを眺めていた。すると急にこの風景はどこかで見た覚えがある、という懐かしさを感じた。僕はゆっくりと店内を振り返ってみるとそこには2階につながる長い階段が見えた。店に入ったときは気がつかなかったのだがこの瞬間に理解して、今度は色鮮やかな思い出がよみがえった。そうか、ここだったのか。

-じゃあ、ABCで。

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当時、彼女と僕の待ち合わせの合言葉だった。その書店は都内でも珍しく美術系の本や画集が豊富で、彼女に言わせると美大生の聖地ということであった。たいてい彼女は待ち合わせの時間よりはるか前に来ていて、僕が到着するころにはいつも2階の美術書のコーナーにある椅子に座って静かに画集に目を通しているのだった。この書店は当時朝5時まで深夜営業していたはずだった。彼女と二人で終電に乗り損ねて朝の始発電車までここで時間をつぶしたことがある。美大生だった彼女はそんなときも、一人静かに画集を手にして飽くことなく眺めているのだった。

僕は2階にのぼる階段の前でそんな思い出に浸っていると階段の上から降りてこようとしている小柄な女性の姿が見えた。驚いたことにそれは紛れもなくその彼女であった。当時はまだ学生で少女の面影を残していた彼女もすっかり大人の女性であった。その瞬間に自分が彼女に二度と会いたくない一心でこの書店に二度と訪れまいと決意していたことを思い出した。そんな決意があったことすらすっかり忘れてしまうほどに時間は流れていた。

彼女は大きなスーツケースを持っていたがそれを軽々と持ち上げて長い階段を急いで降りてきた。階段を下りきるとスーツケースを床において顔を上げたときに彼女は僕に気がついてはっとした。彼女は僕と距離をおいてまっすぐに向き合った。僕はそのとき感じた懐かしさというのは奇妙なことに彼女の顔を見下ろすその角度だった。ひょっとしたら僕はいつでも彼女とこれくらいの距離をおいて向かいあっていたのかもしれない、とふと思った。

-今から空港に向かってローマに行くの。どうしても持っていきたい画集があったから。

彼女はそう説明すると腕時計をみた。焦っている様子だった。書店の出口に近づくと手にしていた赤い傘を広げながら言った。

-ひとつ当ててみましょうか。きっと傘を持っていないんでしょ。天気予報ちゃんと見ないもんね。天気予報だけじゃないか。

それが彼女の本当の最後の言葉になった。彼女は笑みを浮かべたまま傘を持った手を動かして小さく振るしぐさをしたかと思うとスーツケースを引きながら店を出て、地下鉄の駅に向かう傘の列の中に紛れ込んでていった。

僕はまだ店内にいてそれをガラス越しに見送った。そして当時彼女が言っていたことを思い出していた。

―この世界には私たちが理解できない仕掛けが潜んでいるの。

彼女は言っていた。
私たちは普段、脈絡もない出来事の流れの中で翻弄されているように思える。でもそれらには本当はひとつひとつにきちんとした意味がある。学ぶべき時にはそれを教えてくれる人が現れる。出会うべき人には出会う時にちゃんと出会っている。別れるべき人とは別れるべきときにちゃんと別れることになる。それはその時には何のことなのかは分からない。でもそれは時間が経過するにしたがってその意味が少しずつ明らかになっていくのだ、と。

彼女が去ったあとも僕はしばらくその書店にいた。そろそろあきらめて店を出ようとすると、雨はすでに止んでいた。ほんの10分ほどのつかのまの雨が繋ぎ止めた一瞬といってもいいような出来事であった。

―仕掛け、か。

今日、彼女と偶然であったこともその仕掛けの一つなのか。そもそも、あの時、彼女と出会ったことから始まり、それから続く今なら顔を手で覆いたくなるような情けない思い出とその果ての顛末、それらがすべてこの世に存在するという仕掛けなるもののなせる業だったのであろうか。

僕は地下鉄の駅とは反対の方向に歩き始めた。渋谷まで歩いてみよう、と意味もなく。

 

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もしも幸せを

 

もしも幸せを測ることがことができるなら
積み重ねた新聞の高さなのかもしれない


もうすぐ君もこの部屋を出て
新しい生活が始まる

住み慣れたこの部屋に慣れすぎたその時が
いつかは来ることも分かってはいたけれど

愛し合ってたあの頃の二人はけんかもできたのに
この頃、君はとてもやさしい目をしている

愛し合ってたあの頃の二人に一日はすぐに暮れたのに
この頃、時は僕の周りで止まっている


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国歌の研究(その2)

前回に引き続き、各国の国歌の歌詞について観点別に分析する。

 

taamori1229.hatenablog.com

 

■神、英雄、国王など
77カ国中、37カ国(48%)が国歌にこれらのいずれかを採用している。

 

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国歌に神が登場する割合は全地域共通に約30%と高い。現在の国王や統治者がその神の祝福とご加護によって支えられている、と王権、政権のよりどころを神に求めるケースも多い。

■自然

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17カ国の国歌に採用されている。自然の中でも山、川が人気である。アルプス、ヒマラヤ、バルカンなどは神格化されていると考えられる。スカンジナビア半島の3国がすべて自然だけを誇っているのは興味深い。

■他国
国歌は基本的には独立国家として自国民に向けたものなので他国の言及は当然数は少ない。

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韓国・北朝鮮についてはいずれの国家にも「三千里」が共通に登場する。この三千里は朝鮮半島全体を示すものである。これが祖国の統一を願うものなのか、吸収を目指すものなのかは不明である。しかし両国ともに自然の美しさを歌いこんでいてきな臭さはない。民族性によるものなのだろう。またアフリカの諸国ではアフリカ全体としての団結、結束を訴える国歌が散見され、苦難の歴史をうかがわせる。

■敵
神に並んで多いのがこの「敵に勝利する」という視点であり、27カ国に上る。

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敵だけが歌われる国が18カ国と3分の2を占める。この場合は曲想も勇ましい行進曲という形式になることが多い。神や過去の英雄の力で敵を撃退してほしい、という国も9カ国ある。特に中南米の国々ではかなりの割合で敵が登場する。植民地時代から独立を勝ち取ってきた歴史を物語っている。敵と自然は相容れないようで、両方が登場するのはインドの1例だけである。ただしそれでもガンジス、ヒマラヤが神格化されているという点では同じ系統と考えてよいであろう。

■牧歌風

さて抽出した観点での分析を試みたが、これらの観点が一つも登場しない、という国歌も少なからずある。

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なんとなく頑張って幸せないい国にして行こう、というどこか牧歌的なムードである。曲自体は無難で迫力に欠けるものになってしまうが、軍歌そのもののような国歌と比べたら、子供達でも歌えるようにという意図が伺えてほほえましいと思う。

さて、国歌の歌詞の分析は以上である。本当は音楽としての曲調についてもう少し分析したいと考えていたが意外に独特な民族性を感じさせるものは少なく、ほとんどがどこか似通ったものになっているのが残念であった。確かにオリンピックでの授賞式などで国歌が流されるがあれ?と思うような不思議な曲調はそう多くない。メロディラインだけをみれば特異性は垣間見えるのだが近代西洋音楽の和声法に隠れてしまっている。それでも8分の6拍の子の曲とか、短調の曲、そして速度が途中で変わる曲など、その片鱗はある。今回の調査は比較的大きな国が選ばれているためかもしれない。今後はもっと小さな国にも範囲を広げて研究を続けていきたいと考えている。