★Beat Angels

サル・パラダイスよ!誰もいないときは、窓から入れ。 レミ・ボンクール

京都鉄道博物館

 19世紀末のアメリカでは鉄道網の建設が急ピッチで進められ、それが間もなく完成しようとしていた。そんな時代の話である。そこに鉄道関係者にとっては不穏なニュースが流れる。それはベルの発明した電話による全米電話網の整備開始のニュースである。鉄道関係者は危惧する。もしも遠距離の電話でリアルタイムに話ができるようになるとそれで用件は済んでしまうだろう。あえて時間のかかる鉄道を利用する必要はなくなる。乗客は大きく減ってしまうのではないか、と。そして戦々恐々としながら事態を見守った。

 ところがそれは杞憂に終わった。ふたを開けてみると鉄道の乗客は逆に増えたのである。それはなぜか。

 それは、電話網が整備されたことで実際に赴いて会える約束を取り交わせるようになったからである。それまでは誰かに会うにしても事前に約束はできず、鉄道を使って実際に行ってみるしかなかった。当然、相手は不在のこともある、忙しくて会えないこともある。それが鉄道を利用しようと決意するときの足かせになっていた。電話網が整備されたことでそれがなくなった。出発する前にちゃんと会える確約がとれるようになったのである。

 こうして考えてみると、人というのは常に相手に「会いたい」生き物なのだ。その後、電話網はさらに急速な発展を遂げ、スマートホン、インターネットの時代を迎えている。今、相手がどこで何をして何を考えているかいつでも手に取るようにわかるようになった。それでも人の本当は実際に「会いたい」という欲求はむかしも今もそしてこれからもきっと変わらないだろう。

 そして鉄道はたくさんの人々のそんな「会いたい」を今日も運んでいる。

 

www.kyotorailwaymuseum.jp

 

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類数列

 数学の話題でと言えば、Wikipediaによると、

▮類(クラス)

集合論及びその応用としての数学におけるクラスまたは類(るい、英: class)は、集合(または、しばしば別の数学的対象)の集まりで、それに属する全ての元が共通にもつ性質によって紛れなく定義されるものである。「クラス」の正確な定義は、議論の基礎となる文脈に依存する。 

 

 などであるがここでいう『類』とは吉田類のことである。

 

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www.bs-tbs.co.jp

 

 '17年8月の時点で彼が廻った居酒屋の数は793にものぼる。その再放送を見ながらそれを録画しているのだが、私の観ているチャンネルでは過去の番組をランダムに選んで再放送しているのですべての番組を順番にきちんと録画できているわけではない。録画を始めた頃は快調に録画数が増えていったのだが次第にすでに録画済の同じ番組を繰り返し録画することが多くなってきた。特に半数の約300を超えたあたりから録画数はやや頭打ちの閉塞状態に陥っている。

 いったいいつになったら全部録画できるのかという疑問、言い換えれば不安であるが、それがこの解析の出発点となった。

 

 番組の総数が3つの場合で説明する。再放送はこの3つの番組からランダムに選ばれて放送されるものとする。このランダム性によっていろいろなケースが登場する。まずは最短でライブラリが完成するケースは、

 

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 である。次のように、多少の重複があって完成するケースもある。

 

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 次のようにいつまでたっても終わらないケースもある。

 

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 全体の番組数をN、再放送数をn、それに対応したライブラリ数の期待値Y(n)とする。再放送数nに対するライブラリ数Y(n)の期待値は数列として与えられるが、イメージをつかみやすいように曲線としてあらわしたのが次の図である。

  

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 当然のことであるが1回目の再放送は重複する可能性がないので、すべてのNについて、 

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 が成り立つ。nが増えるにしたがってY(n)も単調に増加してNに向かって収束していくがY(n)自体がNに近づくにつれて重複発生の確率が高くなりその傾きは次第に鈍化していく。この様子をY(n)の漸化式で表すと、 

 

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 となる。これを整理すると、

 

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 となり、等比数列に似た形となる。ここで、 

 

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 となるV(n)(未整備のライブラリ数)を定義すると、

 

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 というきれいな等比数列となる。さらに未整備のライブラリ数のNに対する割合V%(n)を定義すると、 

 

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 というシンプルな式が得られる。これを用いて吉田類のケース(N=793)で数値計算を行う。ライブラリが99%まで整備されるまでに必要となるnの値を計算してみると、n=3,649回が得られる。一日1回再放送があったとしてちょうど10年かかる計算である。なるほど道は遠いはずである。

 

 さてここまでは番組総数Nが決まっている場合を考えてきたが、番組数も増えていく中で(例えば1回/週)、再放送もランダムに同じペース(例えば1回/週)で行われた場合を考えるとどうなるであろうか。

 

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 これは上述の式の中で、 

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 とした場合に他ならない。この場合においては、一度重複が発生してしまうとそれは取り返しがつかないロスとなる。なぜならば上の図において白いの数は単調に増加していくからである。よってライブラリの整備率は100%ではないある確率に収束することが予想される。これを計算してみると、
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 この式は未整備率を示しているので、整備率としては約63.2%に収束することになる。意表をついてこんなところにオイラー定数:eが登場した。居酒屋世界の深遠なる超越性を示しているとでも言えるだろうか。

 

利久の牛タン定食

 仙台と言えば、牛タンである。1948年(昭和23年)に初めて牛タン専門店ができたのが発祥と言われている。その後、地元に根付き仙台名物として全国的に知られるようになった。定番は牛タン定食。麦ごはん、牛テールスープ、漬物には青唐辛子の南蛮味噌がつくのが特徴。

 そして人気店の一つが「牛タン炭焼き 利久」。

 

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これは、昨年の2月に訪れた時の写真である。その時は定番の「牛タン定食」を注文。

 

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肉厚の牛タンが歯ごたえ、味わいともに絶品。そして今回であるが、

 

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 似ているが少し違う。今回のは、

 

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 ミニチュアの模型である。

 

天使じゃないわ

 

赤い車のホロをはずして
飛ばすハイウェイ星の降る夜ね
胸のピアノをかき鳴らして
風の五線紙に愛をつづるの

いつまでたっても優しすぎるあなた
時にはちょっと乱れてもいいのよ
こんな夜は

大人じゃない子供じゃない微妙な年ごろね
泣きたいほどあなたが好き
もう微笑むだけの天使じゃないわ

海沿いの道、車をとめて
月の浜辺裸足で歩くの
だめね一人ではしゃぐわたし
あなた目を細め遠くで見てる

愛してるってきいても笑うだけ
あなたにとってまだまだ子供なの
しゃくだけれど

大人じゃない子供じゃない微妙な年ごろね
愛されたい確かめたい
あなたの恋人とよばれてみたい
痛いくらい抱きしめてよ
もうかわいいだけの天使じゃないわ

 


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アクアリウムの午後

 

透明なガラスの上に
描く夏の日
水色の絵の具で染めた
雨の水曜日

光の泡と戯れ
魚たちが躍る
胸にしまいきれない
言葉たちのように


夏の余熱を残す本の
ページをめくって
あてもなく思い出をたどる
雨の水曜日
時間も忘れて
忘れて

 

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www.youtube.com

駅のホームから覗く深淵(『バベルの塔』展)

 その晩、私はとある地下鉄の駅のホームにいた。すでに終電に近い時間だったのでホームには2,3人連れの酔客たちが何組かいてその話し声が響いているだけでとても静かだった。その駅のホームにはクリーム色のホームドアが両側に設置されていたのでそれに仕切られたホームはまるで小さなホールのように明るい空間となっていた。私は階段の下にあるホームドアの前で電車を待っていた。
 

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 するとホームの階段から駆け下りてくる一団の気配を感じた。その中には駅員もいる。その一団は私の前のホームドアのところにやって来た。どうやら乗客の一人が何かを線路に落としたらしい。マジックハンドを手にした駅員はポケットから鍵を取り出してホームドア横の上のふたをあけて鍵を回して、手動でホームドアを開けた。駅員は注意深く線路を覗き込んだ後で、財布らしきものを手際よくマジックハンドで拾い上げてそれを乗客に手渡した。乗客は駅員にお礼を言って何かを話しているようだがその間、私は一つだけぽっかりと空いて暗闇が広がるホームドアの扉の前に立っていた。
 
 そこではクリーム色の柵の合間から深い暗闇が広がっている。普段開いてはいけないもの開いている。このままドアが閉じないままの状態で電車が来たらどうなるのか、それはとてつもなく危険なことのように思え私は一人狼狽していた。でも考えてみれば少し前まではホームドアなどは設置されていなかった。となるとその場合はいたるところが危険だったとも言える。でもその時には存在せず、感じなかったはずの闇、そして深淵が今、目の前に確かに出現しているのである。
 
 この深淵の不安、恐怖の根源は何なのかを考えてみた。ホームドアを設置する前にこの深淵がすでにあったともなかったともいえない。しかし安全のために作った柵が、そしてドアが同時にこの深淵を作り出してしまったのである。それは言い方を変えると本能的に安全を追い求める人間の本能がこの深淵を作り出したとも言える。光を求めようとする我々の所業が同時に闇を作り出してしまうとはなんと皮肉なことか。そしてその所業は我々人間の本能に根差すものであるからこれからも止むことはない。つまり、我々人間はずっと自らが作り出す闇におびえ続けていく宿命にある、ということである。そしてさらにたちの悪いことに人間は向上心なる悪徳をも備えていて、いつでもその上を、その先を目指してしまう。こうして愚かしくも人間の悲劇・喜劇は未来永劫拡大していく訳である。
 
 以上がバベルの塔』展に赴き「バベルの塔」の壮大な絵の前で私が抱いたとりとめもなく、愚ともつかない感想である。私が絵を前にして聴いたのは描かれた1,400人もの愚かしくも愛すべき人間たちへの人間賛歌、そして哀歌の声だったのである。
 

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