少々物騒ではあるがこういうニュースが流れた。
と表される。これらの式から再度地表に戻る時刻とその時の水平距離をt0、x0として解くと、
となる。今回の事例では、
ということらしいのでこれを代入してv、θの連立方程式として解くと、
が得られる。続いて弾道が描く放物線の最大高度を求める。垂直方向の式である。最初に掲げたyの式を変形すると、
となる。第一項はちょうど中間地点で最大の高度となることを示しており、第2項がその時の最大高度y0に対応する。
これを実際の数値で計算すると122mとなる。つまり30階建てのビルの高さに相当する。
先日、茨城県の勝田市を訪れる用事があり、久しぶりに常磐線の特急電車に乗った。席に座って上を見上げてみると、
首都圏のローカル線のグリーン車でみかける表示か、と思ったがこちらでは黄色のランプもある。自分の席の上を見てみると、
自分の席は緑色であった。別にSuikaをかざしたわけではない。座る前からこの緑色であった。ランプは3色である。色の解説は座席前に書かれていた。
右下のランプの説明を拡大してみる。
赤色ランプは「終点まで空席」、黄色ランプは「今現在は空席だが先の区間で予約した人が来て座る」という意味である。この表示はあくまで予約状況だけに対応している。赤色ランプの座席に座ると車掌が来て席で指定席チケットを購入、そこで緑色ランプに変わるという仕組みである。逆に事前に座席を予約した人は緑色ランプを目印に自分の座席を探せることになる。
首都圏を走るグリーン車との違いは座席予約があるかどうか、ということである。この常磐線の座席表示ランプは恐らく最も進んでいるといえるだろう。
車内販売で「水戸黄門弁当」なる弁当を購入。見目も美しく、かつ美味。堪能しつつ目指す勝田駅へと向かった。
発売から50周年を記念して発売。この伝説的なアルバムで各パートの音をクリアに再現したリミックス版。前面にできるべき音がきちんと前面に出て、ちょっとしたギターの指使いとかが鮮明に聞き取れて聞くたびに新しい発見がある。
このアルバムはもともとコンサート仕立てであった。きちんとオープニング、エンディング、アンコールが用意されている。アルバムタイトル曲のエンディングのリプライズ版で「申し訳ないけど、そろそろ終わりの時間だ」と歌うところがあるが、そこで観客から落胆のため息が漏れるところなどもちゃんと聞きとれた。オリジナルでも同じ趣向だったのだがあまり効果が出ていなかった演出もきちんとクローズアップされている。
そして、これを機会にジオラマも作ってみた。
製作時間は約3時間であった。
さてなんだかわからない人も多いと思うが知る人ぞ知る文具屋さんである。創業は2010年なので老舗というわけではない。まずはホームページをご覧になってほしい。
万年筆とノートが好き、そして書くことが大好き、そんな素直な気持ちと情熱がひしひしと伝わってくる。仕事で都内に出た帰り道に、この蔵前にある店に足を延ばしてみた。まだ昼下がりだというのに蔵前駅前とその周辺は閑散としていた。
これならば店も空いていて好都合、と思ったのが甘かった。
このカキモリという文具屋さんの前だけは行列ができていた。店内は満員で入場制限をしているのである。文具屋さんで入場制限とは不思議に思われるかもしれないがここは自分で仕様を決めた自分だけのノートを作ってくれるのである。この行列に並んでいるのはノートを作りたい人たちである。
まず店に入るまでに時間がかかった上に、仕様を決めてから出来上がるまでの2-3時間をどこかでつぶさないといけない。ちょっとそれは無理なので普通の客として出来合いのものだけを購入して退散した。お客のほとんどが若い女性であった。
今回購入してきたのは、この風格のあるノートとボールペンを購入。このペンはローラー・ボールという名称で万年筆のインクが使える。ドイツのメーカとの共同開発品とのことだが滑らかな書き味が素晴らしい。
こうした文具店、本屋は自分と波長が合うことが重要である。話は変わるがこれは最近、桜木町界隈で偶然見つけた古本屋。
店内を少し歩いただけで運命的な波長の一致を感じた。書棚の左上から右下までなめるように拝見しているうちに休日の半日を費やした。ここで購入した本はこれである。
店主と話をしていて横浜市の全区町村の歴史に関する膨大な蔵書があることが分かった。次回はそれを見せてもらう約束をして店をあとにした。
連休を利用してウルトラな街である小田急線沿線の祖師ケ谷大蔵を訪れた。新宿から電車で20分ほどの世田谷区の閑静な住宅街である。
ウルトラな街は自称である。
どのあたりがウルトラなのかを報告する。まず、駅構内の柱には全兄弟の肖像写真が飾られている。すべて本人のサイン付きである。サイン?
北口の駅前広場には、
ウルトラマンの像が立っている。ちょうど交番の前である。次に駅周辺の案内板がどうなっているかというと、
スぺシウム光線でライトアップされている。商店街は駅を起点に南北の2方向に延びていてウルトラマン商店街と呼ばれている。駅の北側がウルトラセブン、南側がウルトラマンの管轄である。管轄というのは何かというと、北側商店街の街灯は、
すべてこれに統一されている。これの頭部を拡大すると、
ウルトラセブンをモチーフにした造形。そして南側商店街の街灯は、
こちらはウルトラマンのデザインである。
つまりウルトラマン達に照らされて警備されている、ということである。南北の街灯の柱の部分を比べてみると柱の部分もきちんとスーツの色合いにデザインされていることが分かる。ウルトラマン街灯の方には、
ちょうど目の高さにカラータイマーが設置されている。いったいこれの目的はなんだろうか。監視カメラか、警報機か。監視カメラということだとHAL9000を彷彿とさせる。
駅から南に600mほど歩いたところに商店街の入り口があるのだが、そこには、
アーチがかけられている。商店街からも外れていて駅からも遠すぎる。
飛んでいるのはウルトラマン、但しスーツをよく見ると帰ってきたウルトラマンである。背中にとぐろを巻いている配電線が少し残念。
最後に駅前に戻り、北口の交番の建物もじっくりと眺めてみると、
交番の2階部のデザインはウルトラマンの目の形のようである。なかなか洒落が聞いている。
大事なことの説明が最後になってしまったが、かつて円谷プロダクションの本社が砧7丁目に、また円谷英二氏の自宅が祖師谷3丁目(ウルトラマン商店街内)にあったことでこの街はウルトラマンにたいへんゆかりの深い街なのである。
結論としてはこの商店街は昼夜を問わずウルトラマン達に警備されている安全・安心な街である、ということである。しかし、その真価は夜暗くなってからでないとよく分からない。時計を見ると午後2時、残念だが夕暮れ時まで待つことはできないのでこのあたりでお暇させていただいた。
奥羽本線の板谷駅から歩いて1時間半、目的地である峠駅までやってきた。
■JR峠駅(新ホーム)
駅を探して細長い三角屋根の建物に近づいてみると、
峠駅の看板と入り口らしきものが見えた。養鶏場とおぼしきこの建物がまさしく駅舎なのであった。
中は真っ暗で何も見えない。中に入って見ると、
まるでヨーロッパの駅を思わせるような空間が広がっていた。ちなみにこの駅は山形新幹線の通過駅でもある。まさにこの線路を下りの新幹線が通過していく。正面のトンネルから新幹線が顔を出したと思った瞬間、同時に私ははじき飛ばされていることだろう。当然のことだが、そうならないようにここには踏切と警報器が設置されている。この駅に停車する各駅停車が3時間に1本というペースなのに対して新幹線は20~30分に1本なので結構気ぜわしい。
この駅舎の中の明るさは電気を使った照明によるものではない。屋根に施した採光の工夫による自然の照明による。この写真のように屋根には半透明の帯の部分が等間隔で並んでいてそこから散乱する光がこの駅舎の不思議な雰囲気を作り出している。
現在の峠駅の全景。右下のシマヘビのようなところが現在の峠駅のホームである。シマヘビの白い縞が採光のための屋根の半透明帯である。
さてこの駅全景の写真からも明らかなように峠駅は複雑な形をしている。これがかつてのスイッチバックの名残なのである。左上に向かって二股に分岐しているのが特徴である。
峠駅のホームからこの分岐部を見てみると、
これは下り方向を見ていることになる。右側が本線であり米沢に向かっている。そして左側が行き止まりの分岐線である。スイッチバックは1990年に廃止されたのですでに左方向に分岐する線路は撤去されている。写真ではわかりにくいが、右側の本線は駅に向かって傾斜を上ってきているのに対して左側の分岐線は水平になっている。この本線、分岐線の傾斜の違いがスイッチバックの大きな鍵を握っている。
まずはスイッチバックの原理から説明する。
■スイッチバックの原理
スイッチバックの原理を説明する看板が峠駅にあった。
・・・さっぱりわからないのであらためて解説図を作成した。
米沢から福島に向かう本線は①から④に抜ける必要がある。ところが傾斜が厳しいために列車は通り抜けることができない。そのため一度水平方向の②に停車しそこから引き返して同じく水平の③に向かって停車する。③から再出発した列車は水平であることを利用して加速したのちに④に乗り入れるのである。昔はこの水平な場所である③の場所に駅のホームがあった。スイッチバックはかつての重厚な蒸気機関車の馬力不足を補って急な傾斜を上っていく巧妙な技術であった。米沢から福島までこのスイッチバックは連続する4駅で採用されていてこの4駅の総合力で県境の厳しい峠を乗り越えていたのである。奥羽本線の開通は明治時代だったから、この技術はその頃すでに確立されていたことになる。
乗客から見ているとそれまで走ってきた汽車がいったん停止し、引き返していく。すると後方から駅のホームが現れるということになる。それは子供心にもまるで手品のような不思議な感覚であった。
さてこの原理に基づくと、②の待機場所があったはずである。まだ残っているだろうか。ホームを福島側の端に向かって歩いて行った。すると、
左側になにやらトンネルらしきものが見えてきた。ホームの端までいってみると、
②の待機部分の線路はすでに撤去されているがトンネルだけが遺構として残っていた。そう言われて記憶をたどってみると、確かにとある駅では折り返し地点が暗いトンネルの中だったことを思い出した。それがまさしくこの峠駅であった訳である。
引き続いて③の峠駅の旧ホームを探索することにした。
■JR峠駅(旧ホーム)
新ホームから分岐線にそって歩いて行くとまずは屋根付きの建屋がある。
すでに線路はないが建物だけは残っていて、現在は駐車場として利用されている。この建物は同じく三角屋根であり、これは実は雪のシェルターだったのである。屋根の部分を見上げると、
雪崩でも大丈夫なように頑丈な作りをしている。
これがシェルターの全景である。シェルターから外に出て前を見てみると、
何もない。さて旧ホームはどこなのか。下調べして見つけた写真はこれである。
この写真だけを頼りに道を進んでいった。すると、電柱に赤いペンキで「立入禁止」と書かれている場所まで来た。そこから先は誰も入ったことがないように荒れ果てている。立入禁止は見なかったことにしてさらに進んでいった。そこにはむき出しの有刺鉄線などが地面に放置されていて確かに危険である。やがて、
なにやら建物が見えてきた。そして足下を見てみると段差がありこれは荒れ果てているが、かつてのホームなのでないか?と気がついた。
これはまさしく駅舎の屋根を支えていた支柱の礎石であろう。建物に向かってさら進んだ。
とうとう目的地にたどり着いた。かろうじて線路も埋もれているが確かに残っている。
屋根を含めて木造部分は完全に崩壊して鉄骨だけが残っている。しかしそれも今にも倒壊しそうである。厳しい風雪の中での20年を越える歳月の流れの厳しさを実感した。
もう一方のホームの遺構。こちらに待合室があったという記録が残っているが無残な姿である。これがかつては急な上り坂を登るきるために力をためて加速するための重要な出発地点だったのである。私は寂しい気持ちで旧ホームを後にした。
■峠の茶屋と力餅
さて、ここまで来たのでやはり力餅である。
峠の茶屋。明治時代、奥羽鉄道の開通に向けた工事者たちに疲れを癒やすために振る舞った頃から営業している老舗である。
これが力餅。
きめ細やかでまろやかな餅と甘さを抑えた少なめのこし餡、コーヒーにもよくあった。こうして、すこし沈んだ旅心も少しは慰められたのち、この思い出深い峠駅を後にしたのであった。
峠駅から福島駅に向かう各駅停車に乗車した。運転士も車掌も若い女性であった。もちろんスイッチバックはもうない。かつての列車とは比べようもないくらい若くスマートな電車は苦もない顔をして軽々と峠を越えていった。